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※注!この小説には、暗殺編のネタバレがありますので、ご注意下さい。

シャルル=ダ・フールの王国

勝てない頃


 にわか雨が降っていた。タッと、足を出せば、水たまりを踏む。水しぶきが飛び散り、泥になった砂の塊が重くはねる。
 サンダルを汚しながら、シャーは目の前を見た。雨の向こうの敵は、大きく見えた。いいや、実際、それほど大きいはずがないのに、それはとても大きなものに見えていた。
 いつからか、シャーは、微かに肩で息をしていた。相手の影は、雨の向こうで二重に見えていた。相手が動いているわけではない。シャーの目にそううつっただけだ。
(いつまで、こうしてればいいんだよ!)
 わずかに歯がみしながらシャーは思う。先程からずっと、彼ばかりがわずかに方向を変えたり、足踏みをしたり、構えを変えたりするだけで、相手は一切動かなかった。それなものだから、シャーの方も、飛び掛かるタイミングを失っている。隙も見えないし、相手にやられそうで、なかなか飛び込めない。
「いつまでそうしているつもりだ?」
 ふと、静かでおごそかな声が、雨の壁の向こうから不気味に響いた。
(いや、今じゃない)
 惑わされてはならない。シャーは軽く首を振った。髪の毛を濡らした雨が、額を伝って流れ落ちる。静かに刀を握った手を引き、シャーは姿勢を低く取る。いつのまにか唸っていたシャーは、飛び掛かる前の犬のように相手を睨んだ。
 と、ふらり、と相手の影が揺らいだ。それは一瞬だが、紛れもないチャンスのように映った。誘われるように、シャーは、ふらっと足を進めた。一気に地面をけりつけ、彼はそのまま躍り上がるようにとびかかる。
「愚か者が!」
 近づいてはっきりとしてきた相手の鋭い眼光が、とびかかるシャーの目を射抜く。その容貌がはっきり見えたとき、シャーが刀を振り下ろそうとしたとき、その一瞬に白い光が飛んだ。手に衝撃がくわわったことに気づいたときには、シャーの刀はすでに雨の舞う宙を飛んでいた。



「チッ、ちくしょ〜〜ッ! あああのジジイッ!」
 珍しく荒れた様子のシャーは、乾きつつある泥を蹴り上げながら、ふてくされたように乾いた地面の上に座った。雨はいつの間にか上がっていて、水たまりになっていた場所も干上がっていく。
 シャーは、近くの井戸から汲んできたらしい冷たい水の入った桶に右手を手首までつけていた。
「手加減って言葉をしらねえのかよ! 右手が使い物にならなくなったら、全部あのくされジジイの……あいてててッ!」
 シャーは、水に入れていた右手を一度ひきだして、左手でつかんでみる。まだ燃えるような熱をもっているそこは、手の甲から手首の下まで見事に赤くはれあがっていた。
「くーっ、マズイ! 今日はいつもみたいにボケながら皮肉ることすらできねえぐらい痛い……! ちきしょう、ホント、折れてるんじゃないのかなあ、これ」
 シャーは、きれいな布を取り出して水にひたしてから、そっと右手首に巻き、そのまま水につけた。ヤケ気味につっこんだせいか、ばしゃんと撥ねた水滴が頬に降りかかる。
「わかりましたかな? ――ああいう風に敵は攻撃を誘うのですよ」
 ふいに低い声が割り込んできて、シャーは、ムッとして顔を上げた。そこに立っているのは、白髪がかった髪を後ろに流した初老の男だ。この辺りではあまり見ない顔立ちの彼は、東の方からきたとも言われる。それが真実かどうか、シャーは知らないし、しったことでもない。
 少し鋭い目の男だが、今は多少ゆるやかである。それは、明らかにシャーの様子をみておもしろがっていることがわかる。
 男の名は、ザドゥと呼ばれていた。それが本名であるかどうかは知らない。ただ、誰もが彼のことをそう呼ぶのできっとそういう名前なのだろう。
「わかったのは、なぐられると痛いということだけです」
「ほう、ならばそれでよろしい」
 シャーの適当な答えをきいて、ザドゥはにやりとした。
「痛い目に遭えば、恐怖心が出てうかつに動かなくなる。それも一つの学習ですな……。もっとも、恐怖に捕らわれているだけではただの臆病者。時には、誘いにまけずに飛び込むことも必要なのですがね」
「お師匠様、その前にオレは右手が痛くてどうしようもないよ。これ、折れてるんじゃないの?」
 怨みがましそうな口調でそういうと、ザドゥは、楽しそうに笑った。
「まさか。私は手加減しましたぞ。大体、それで折れるような柔な骨はしていますまい」
「……木刀でなぐっといてよく言うぜ。鬼だよなあ」
「ははは、困った方ですな。私は木刀、あなたは真剣。それであなたが勝てないのが悪いのですよ。嫌なら避ければよろしい。よけられなかったあなたが全て悪いのですよ、殿下」
「チッ、言いたいこといいやがって! よけられたら苦労してません!」
 そうふてくされたようにいうシャーが、不機嫌なのは別にやられた傷が痛むからだけでないことをザドゥは知っている。この子供は、これで負けず嫌いなのだ。彼が先程からぶつぶつ言っているのは、ザドゥにあっさりとやられたのが悔しいからに決まっている。
 その様子を見やり、ザドゥは先程とは一転して、明るい笑い声をあげた。笑われていることを知り、ますますシャーは口を尖らせていたが、ザドゥは態度をあらためなかった。
 

 これは、シャルル=ダ・フール一四歳の時の話。
 東方から渡ってきたという剣士ザドゥが、彼の教育に当たったのは、彼が十六になるまでだったと言われている。彼についてはあまりにも謎が多く、シャルルの教育を終えてから彼がどこにいったのかは、定かではない。



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©akihiko wataragi