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※注!この小説には、暗殺編のネタバレがありますので、ご注意下さい。そして、時期的に魔剣読了後推奨です。

シャルル=ダ・フールの王国

貴公子の下町散歩

「シャルル、そういえば、この前、とてもよい人に出会ったのだよ」
 ブドウを口にほおばりかけていたシャーは、思わぬ兄の言葉に手を止めた。口に広がっていた甘酸っぱい味がすっかり分散しかけていて、ちょうどもう一粒ほしくなってきていたところだ。
 この涼しげな昼下がり。珍しいこともあるもので、シャーは兄の顔色を伺うのに宮殿に現れていたのだった。宮殿では、さすがにあの格好をしているわけにもいかないので、シャーもそれなりにいい服装をしているのだが、彼はあまり格式ばった服が似合わない。女官からも不審そうな目で見られるので、本人は、いつもの服にサンダル履きでくつろぎたいところなのだったが。
 目の前のレビ=ダミアスは、今日は加減もよいらしく、顔色も悪くない。そよ風が入るバルコニーで、シャーは果物を食べながら世間話に興じていたのだ。
 体が弱いレビは、めったに外を出歩けない。シャルルとして代役をつとめてからは、特に外にでなくなった。たまには面白い話をきかせてやらないと、シャーとしても申し訳ないのだ。
「とてもよいひと? 兄上、まさか城外にでていたのかい?」
「ああ」
 レビは、やわらかく微笑んだ。血のつながりがないから当たり前だが、レビは、シャーと違って生来上品にできているので、その笑みもいかにも人のいい貴人の笑みといった風である。シャーは、そんな兄を見るたびに、自分には無理だよなあと思うのだった。
「お忍びで、外にでていたんだ。シャルルみたいに、外の世界をみてみたくなったんだよ」
「兄上、それは危ないよ。ちゃんと従者についていってたら大丈夫だけどね」
「それが、はぐれちゃったんだ」
「ええ?」
 危ないよ、といったとたんいそんなことをいわれて、シャーは慌てた。
「は、はぐれたって……」
「あの時は大変だったんだよ、シャルル。裏道に入り込んで、どこかわからなくなってしまってね」
 そりゃそうだ。シャーは、あきれてしまった。ただですら世間知らずの彼である。もちろん、外の道を一人で歩いたことなどほとんどないのだ。
 まして、この王都は、防衛面から迷いやすいように作られている。ちょっと大通りを外れてしまうと、方向音痴な兄が迷わないわけがなかった。
「兄上、本当に無事だったんですか?」
「ああ。そう、そのとき、あの人が助けてくれてね。とてもいい方だったのだよ、シャルル」
 そういって、レビは、顔を上げる。心なしか目がきらめいていた。


 青い青い空の下、ぽつんと一人、建物の中に取り残されて、彼は、おっとりとつぶやいていた。
「こまったな」
 彼としてははぐれるつもりは毛頭なかった。ただ少し、従者が買い物を済ませる間、暇だったので車から降りてあちこちを散策していただけなのだ。近いところを調べて回るつもりだったのに、いつの間にか、華やかな通りは遠くになり、人寂しい場所に紛れ込んでしまっていた。
「道に迷ってしまったようだ」
 遠くに王宮が見えているが、あそこまでたどり着くにはどうしたらよいだろう。まっすぐ歩いても無駄に違いない。 以外に城下町は入り組んでいると教えられていた。まず、大通りに出て行かなければならないのだが。
 レビは、きょとんと首をかしげた。
「仕方がない、周りの人たちにきいてみよう」
 こういうときは、周りの人間に聞いた方がいいと、そういえばシャーも言っていた。信頼できる弟の言葉に従って、レビは辺りを見回した。住居が多い割りに、人気が少ないように思う。一体、どこに迷い込んだのだろう。
 迷ったときは動かないほうがよい。そんなことを弟に聞いた。が、動かないほうがよいにしても、ここで黙ってたっていても、どうにもならない。とりあえず、道をきく人を見つけないとならない。
 レビは、ひとまず、てくてくとその道を進んでいくことにした。
 廃屋めいた建物は、まだ続いていた。実際は、人の生活の気配がないわけではなかったのだが、レビにはそもそも庶民の生活の気配などわかろうはずもない。人気がない、ということでおおまかにひとくくりにしてしまっていた。
 しかし、レビが幸運だったのは、彼の歩いていた方向が、たまたま人家の集中する場所に向かっていたことである。歩く彼の耳に、やがて子供の声が聞こえていた。



「そのガキどもに道をきいたわけですね、兄上」
 兄の話す内容を、はらはらしながらきいていたシャーは、ようやく、つまんだままもっていたぶどうを一粒口に入れた。正直、兄が何をしでかしたのか、心配でぶどうなど食っている場合ではなかったのだが、話がいい方向に向かったので安心したのだった。
「それがだね。子供たちの声が、あまりにもにぎやかだったので、最初はふざけて遊んでいるのだろうと思っていたのだが」
「え? 違うの?」
 兄は、にこにこしているが、急に話が予想外の方向に向かったので、シャーはぶどうを飲み込むのをやめた。レビは、のんびりと首をふりやる。
「彼らは遊んでいるのでなく、脅かされて恐がっていたのだよ」
「ええ! ちょ、ちょっと、兄上」
 なにやら、話が不穏な方向に向かってきた。シャーは、冷や汗をぬぐった。


 レビが、角をまがると、ちょうど騒ぎ声をたてている子供達の姿が見えた。しかし、見えたのは子供達の姿だけではなく、大人の男三人ほどの姿も見えていたのだ。
「おい! お前んところの親父にいっとけ!」
 男は、おびえるふたりの少年に、低い声でそう凄んでいた。
「金をまだ払えねえようなら、いい加減、ガキさらって売るぞってな」
「とーちゃんは、そのうち払うって言ってた」
「信用できるか! 明日までに払えっていっとけ!」
 おびえながらも、こういうことには少しは慣れているのだろう。少年がそう返すと、男はさらに声を荒げた。
 レビは、剣の柄を握って思わず走り出していた。
「何をしているのだ!」
 そう呼びかけて、レビは子供と男の間に入り込んだ。
 唐突に現れた、貴公子然とした立派な服装の青年に、男達も子供達も驚いたようだった。当たり前だ。この街の風景に、もっとも似合わない雰囲気の青年であるのだから、レビという人は。
「何だ、お前は」
 予想外の人間の出没に、むしろ不気味そうに男は彼をにらんだ。
「子供がおびえている。事情は知らないが、子供をそんな風におびえさせるのはよいことではないだろう」
「何だ、こいつ」
 男達は、レビの言葉に肩をすくめた。
「どこの坊ちゃんだか知らないが、早く屋敷に帰ってろ。俺達は、こいつの親から借金を取り立てなければならねえんだよ」
 レビは、ゆったりと首をかしげた。
「借金? お金を借りたのなら返すのが道理だが、しかし、子供にそのような話をするのはどうかと思う。返せないのなら、待ってあげなさい」
「そういうわけにいかねえから、こうやってきてるんだろうが!」
「兄貴、鬱陶しいからやっちまいましょう!」
 舎弟らしい人相の悪い男がそういった。
「そうですよ。こんな奴と問答しても時間の無駄ですぜ」
「それもそうだな。おい! 痛い目にあいたくなかったら、今のうちに帰れ!」
 男達は、腰に無造作にぶら下げている剣に手をかけた。レビは、それをみて首をふる。
「致し方ない。暴力に頼りたくはないが、貴方達がそのような態度なら、私もそれに応じるしかないようだ」
 レビも、つかんでいた腰の剣にそっと右手をしのばせる。
 今にも刀を抜いて切り出しそうな気配に、子供達は危機感を募らせ始めた。
「ど、どうしよう」
「あの兄ちゃん、危なくないか」
 少年達は、小声でそう話し合う。
 いかにも強そうで悪そうな男三人と、綺麗な格好だが青白い顔色のいかにも優男なレビを見比べれば、どちらが強そうなのかは一目瞭然だ。
「なあ、先生がこういうときよべっていってなかったか」
 思い出したように少年が言った。
「先生を呼んできたらなんとかなるかもしれないよ!」
「うん!」
 少年達は、一触即発のレビと男達をおいて慌てて走り出した。男達が、待てと叫んだ気がしたが、振り返っている時間はなかった。
 彼らは、「先生」がいるはずの、自分達が住んでいる長屋風の建物まで慌てて駆けていった。

「先生」と、彼らが呼ぶ人物のことを少し離しておかねばならないだろう。
 少年達のいう「先生」が、 この雑居地に現れたのは、実は、ついこの前のことだ。
 おそらく流れ者だと思われる男だったが、大家の爺さんが気に入って店子に引き入れたものであるらしい。不気味な雰囲気のある男で、どこか陰気なところがあり、しかも、太陽の光が苦手らしく、昼間はめったに外に出てこない。
 怪しい男ではあったが、性格は非常におとなしく、まじめで律儀な男だったので店子の中ではそれなりに評判が高い。礼儀正しく、綺麗好きで堅い口調で話すので、もしかしたらそれなりに身分の高い男だったのかもしれない。
 ここのところ、求職中であるらしく、内職と大家の爺が紹介する力仕事で食いつないでいるらしかった。その合間に、やはり大家の爺の依頼で、子供達に読み書き計算や、簡単な剣術を教えいた。また字が読み書きできるので、手紙の代筆や読み聞かせなど、大人たちも彼にはそれなりに世話になっている。彼を「先生」と呼ぶのは、ソレが由来である。
 もっとも、先生の名前を彼らは知らない。知っていたとしても、大家の爺ぐらいであろう。知らなくても、大して困らないので誰も彼の名をきかなかったし、彼の身の上もきかなかった。本人も話さないが、そういうことを聞きやすいような男ではなかったからだ。
 先生は、その見返りには金を受け取らなかったが、その代わり、世話になった店子たちが食料や生活用品を彼にもっていっていた。先生は、不気味な雰囲気で人を寄せ付けない雰囲気であったが、一度慣れてしまうとそれほど恐くもないこともあり、意外にこの長屋の中に溶け込んでいた。
 ともあれ、その「先生」。
 問題ごとがあれば、いつでもいってくるといい、と常々子供たちにいっていた。少年達は、その言葉を思い出したのである。
「先生ー! 先生ー!」
 さっそく先生の住んでいる、あばら家……といっても、ここいらの建物は、大体そんなに綺麗で立派なものはないので、標準ではあるのだが、に駆け込んで、少年達は口々に彼を呼んだ。
「先生ー! 先生ー!」
 先生の家の戸口にたってそう呼びつける。喧しく呼んだせいなのか、当の先生は思ったより早く戸口に姿を現した。といっても、先生は昼間の日光が嫌いらしく、体半分は暗い部屋の中だ。
 先生は、暗い部屋の中で迷惑そうに眉をひそめていた。
「一体何事だ。今、私は仕事中だから静かにして欲しいのだが」
「どうせ、内職で造花でも作ってるんだろ。一個作ったところですごいはしたがねなんだから、別にいいじゃんか」
「何を言うか、貴様。お前のててごやははごも相当な苦労をして……。そもそも、金を稼ぐというのは大変な」
 先生は説教好きなので、少年のそんな言葉が許せないらしく、早速そう説教をはじめかけた。少年達は思わず慌てる。先生の説教は、正直長いのだ。おまけに、今は本当に時間もないのである。
「せ、説教は後できくから」
「本当に大変なんだよ! だから、先生を呼びにきたんだから?」
「だから、何が大変なのだ?」
 先生は、説教を中断されて、少しむっとしたようだが、少年達の様子がさしせまっているようなので、眉をひそめた。
「また悪戯だったら承知せんぞ」
「今度は違うよう」
「この前、うちにきた借金取りの奴らがきてたんだ。それで、通りすがりの兄ちゃんが、助けてくれたんだけど、兄ちゃんもやられそうなんだよ」
 少年たちは、不安げに先生を見上げた。
「先生のほうが、その兄ちゃんよりでかいし、どうにかなるかと思って聞いてみたんだよ」
「何、それは確かに一大事だな」
 先生は、何を思ったか部屋の中に入ると、剣を取って戻ってきた。その剣は、貧乏な先生が持つには妙に立派なものであるのだが、先生が真剣をぬいたのをあまりみたものがいないので、中身は鉄ではないという噂があった。そして、大体先生は暗い色の服しかきないのだが、今日も黒の上下である。今日は緊急事態なので、時々出歩くときのように、黒いマントやコートを羽織ったりしないだけマシだが、少年達からみるといつでも暑苦しい格好のように見える。
「どっちだ?」
「あっちのほう」
 日の光のしたに立つと、やはり眩しいのか目を細めて手をかざして日をさけたが、意を決して彼は外に出た。
「お前達は危ないからここで待っているのだ。よいな?」
 先生は、しゃがみこみ、少年達の肩に手をおいて駆け出した。先生は普段は頼りないが、案外走り出したときの様子を見ると、何となく出来る男風に見えるものである。
「おいおい、なんだい?」
 様子を見ていた隣の親父が、何事かと歩み出てきた。それをみてはす向かいの爺さんも、ふらふらと近づいてくる。
「先生、えらく血相かえてたようだが、お前達何を吹き込んだんだ」
「吹き込んだんじゃないや。お願いしただけだよ」
「そうだよ。借金取りが暴れてるから……」
「こら、お前、先生に荒事の仲裁を頼んだのか?」
 隣の親父が、あきれた様子で言った。
「うん。先生が何か大変なことがあったらいえっていうから」
「大丈夫かな。あの先生、アレで案外見掛け倒しみたいだし」
「ええ、でも、先生、ガタイがいいから、案外押しだけはきくんじゃないか。強面だし」
「でも、この前井戸でこけて、水をぶちまけているのをみちまったんだよなあ」
「ああ、そういえばそうか。おれもそういや、洗濯物を全部地面にまきちらして、もう一度洗いなおしているのをみたわ。見かけは強そうなんだがなあ」
 はす向かいの爺さんが、顎鬚をなでやった。
「大丈夫かねえ……」
 あ、と、少年の一人が声を上げた。
「でも、先生は、ふじみだとかいってたから、あのおにいちゃんの代わりに殴られてくれるかもしれないよ」
「あ、それはそうだなー。ちょっと殴られたぐらいじゃあ、へこたれなさそうだもんなあ、あの旦那」
「折角だから、怪我したときの為に、消毒用の酒とお湯ぐらいは用意してやっかねえ」
「そーだな」
 少年達と無責任な大人たちは、そういって納得して笑いあうと、とりあえず解散していくのだった。


 レビは、少なくともそのときは善戦していた。気合の声とともに、相手をおしやり、足を払う。バランスを崩した男は、地面に転がされ、レビは新たな敵へと視線を移した。
「こ、こいつ!」
 他の男達が、レビを警戒しだした。今までは、貴族の世間知らずの若造のことだと甘く見ていたが、少なくとも剣技はなめられたものではない。
 レビは、体の弱さゆえに活かしきれてはいないが、剣の腕まではシャーから見てもかなりなものなのである。
「さあ、どうするのですか! ここは立ち去りなさい!」
 レビが、鋭く声をかける。しかし、まだ男達は二人残っている。レビがトドメを刺すことはないので、地面に転がっている一人も、まだ戦闘不能な状態ではない。
「うるせえ! いい加減、てめえこそ自分の不利なのを知ったらどうだ!」
 男達は言い返し、剣を構えなおす。いまだ逃げる気はないようだった。
 レビは、深く息をついた。まだ体の調子は悪くなってはいないが、元来無理できない体でもある。無理をしないように調整しながら、戦いを続けなければ、勝った後で発作が起きるかもしれない。
 だからといって、ここで逃げるようなレビでもなかった。
「何をやっておるか、貴様等ー!」
 と、向こうから唐突に声がかかった。
 そちらをみやると、黒服の男が剣を片手に走ってきているところだった。
「な、なんだ、貴様は!」
「そこの住人だ」
 住人だと言われても、男達は警戒を隠さない。当たり前だ。やってきた男は、とてもではないが堅気ではない雰囲気を全身から発している。むしろ、こんな昼間に普段着をきてうろついていることが不思議な感があった。
「いたいけな子供に刃を向けるとは許せん輩だ。とっとと去ね!」
 なんだかわからないが、目の前のいかにも危なさそうな男は、どうもあのガキ共の住んでいる住居の近所の人間らしい。正義の味方には到底見えないが、余り関わりたくないので借金取りたちは急に慎重になった。
 レビは強い。数人がかりで戦えば何とかなりそうだったが、もう一人厄介な奴が増えては、正直圧倒的に不利だ。おまけに、今度来た男は、何となく普通の人間には見えないことである。
「チッ、今日は引き上げてやらあ!」
 行くぞ、と舎弟たちにいい、借金取りは急に弱腰になって逃げ去っていった。それを見送った男は、舌打ちして小声で吐き捨てる。
「奴らめ、夜なら、誰も見ていないところで心置きなく斬り捨ててやったものを!」
 さすがに昼間は遠慮しているらしい。今、誰かを斬って帰ったら子供たちにも住人達にも、明らかに危険な人間だとわかってしまうにきまっているのだ。
 男は、つまり「先生」は、結局剣を抜かずに終ったことを安心する一方、少し物足りなく思いながらレビのほうに向き直った。
「さて、どうやら近所の子供を助けてもらったようだが、貴殿のほうは大丈夫……」
 と、声をかけかけて、男はびくりとした。
「やあ、どうもありがとうございました」
 レビは固まった先生の反応を気にせずに、そういって笑顔になった。
「私も、できれば手荒なことはしたくなかったのですが、貴方が来てくれたお陰で、これ以上の無用の暴力を避けられました」
 上品に笑うレビに、先生のほうは表情をかためたままだ。
「あの子たちも無事のようでよかったです」
 先生は返事をしない。レビは、初めて男がぴくりともせず彼を凝視しているのをみて、首をかしげた。
「どうしました? もしや、走ってこられたときに転んでお怪我でも」
「いっ、……いや、そういうわけでは」
 そういうわれて、先生はようやく困惑気味に答えて、視線をさまよわせる。動揺しているのは、傍目から見てあきらかなのだが、レビはそこまで気にしない。ただ、男の顔をどこかで見たような気がする。どこで会ったかは思い出せそうにないが、恩人だったら困る。レビはさりげなく聞いてみることにした。
「失礼ですがどこかでお会いしたような気がするのですが」
「どこかで……」
 レビの様子を見て、相手の男は、ようやく冷静さを取り戻したのか、こほんと咳払いをして姿勢を正す。武官のようなきれいな動きをする男である。
「私は貴方とは初対面であるように思うのだが」
「そうですか。では、私の思い違いですね。しかし、ありがとうございます」
 レビは、そう答えて柔らかに微笑んだ。
(思い違いのわけがないだろう)
 先生は、心中そう突っ込みながら、ため息をつく。
 シャルル=ダ・フールに対する大規模な反逆未遂事件があったとき、ラゲイラの最後尾について、彼も王の部屋に押し入ったことがあるのだ。もちろん、そのとき、彼はそこまでの権限を与えられていなかったので、ちらっと部屋の様子をみに中に入っただけで、すぐに外に出て周りを押さえにでかけていたので、それほど顔を見られていないとは思っていた。
 だが、彼は、目の前の青年の顔をしっかり覚えていたのである。当たり前だ。占拠した部屋の中央に立っている彼こそが、標的だった。とはいえ、彼が影武者であることを、本物の顔を見たことがある男はしっていたわけであるが。だが、逆にそのことが、彼の興味をかきたてたのかもしれない。
 よくも、あの三白眼は、似てもいない、上品な義兄を身代わりにしたてたものだな、と変な意味で感慨深く思ってしまったのだから。
 だから、彼は目の前の青年が、レビ=ダミアス王子であることがすぐにわかったのだ。最初は、違う人間だろうとも考えたが、上品な物腰に口の利き方、弟とは違って、普段から無意識にまきちらしている貴人らしい空気を考えるとそうと判断して間違いない。寧ろ、なぜ、彼がこんなところでぶらぶらしているのかは謎だったが。
 しかし、彼が自分の顔を覚えていないことは幸いだった。一応、あの件にくわわった彼は反逆者であるので、ばれたら大変面倒なことになるのだった。
 いささか退屈で刺激のない暮らしだが、彼もここの静かな暮らしに、ほんの少し幸せを感じているところだったのである。
「実は、道に迷って大通りを探していたところ、あのものたちが狼藉をふるうのを目撃し、これはいけないと思って飛び出してしまったのです」
「そ、そうか。それはよい心がけだが」
 道に迷った? なんとなく嫌な予感がして、彼は眉をひそめた。
「道、というと、帰るところを探していると、そういうことか?」
「ええ、そうです。ちょうど、従者とはぐれてしまい、大通りに出ればよいともきいたのですが、どこにいるのかわからなくなったので、誰か人にきこうと思ったのです。ちなみに、宮殿が私の……」
「も、もういい。みなまでいわなくてもいい」
 彼は慌てて青年の口を止めた。このまま身分まで暴露してしまいそうだ。
「私が大通りまで連れて行ってやろう。その代わり、そこからまっすぐに帰るのだぞ」
 ため息をついて、先生は、きょとんとしているレビにそういうと、早速道案内をするべくきびすを返したのだった。



(アイツじゃねえか)
 話を聞き終わって、シャーは痛み出した頭に手をやっていた。
「宮殿で是非お礼をといったのだが、当然のことをしたまでだ。礼には及ばぬ、といって去っていかれたんだ」
 レビは、にこにことそう語り、シャーのほうを見た。
「とても謙虚で素敵な方だったよ、シャルル。市井に住んで仕事がないようだったが、ああいう方を是非部下にしたいものだな?」
「へえ。部下にねえ」
 シャーは、引きつった笑みを浮かべながら、ため息をついた。
(なんでまた人斬りのおじさんを捕まえてくるんだい、兄上)
 あきれる義弟の思いとは裏腹に、レビはおっとりとろくでもないことをいっているのだった。
「シャルル、またあの方に会えるとよいなあと思っているんだよ。今度は、道案内してくださったお礼を是非さしあげたいのだ」
「へ、へえ」
 シャーは、なんともいいようがなくうなずくばかりである。
(正直、もう二度と会わないほうがいいと思うけどな。オッサンも、さぞかし心臓に悪かろうし)
 シャーには、あの男の引きつった笑みが思い浮かぶようだった。
「ま、まあ、運がよければ会えるんじゃないかなあ」
「そうだね、シャルル」
 レビの笑顔に、シャーは深くため息をつき、これから兄が外出するときは、絶対に目をはなさないようにきつく周りに言いつけておこうと誓うのだった。

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