※この話には暗殺編のネタバレがあります。
シャルル=ダ・フールの王国
世界を知る窓
木陰は涼しくて、しかも穏やかだ。微かな風が肌をなでる感覚も、木漏れ日が降り注ぐのも、この地方ではあり得ないほどに涼しく、爽やかだった。青を基調にした屋敷は、彼一人が、その召使いを引き連れて住むにも広大で、彼にここを与えてくれたセジェシスに申し訳ないような気がする。
ザファルバーンの昼間の日差しは、体の弱いレビ=ダミアスには毒である。彼が日の目を浴びるには、こうした穏やかな場所が必要だった。この木の下は、そうした彼が本を穏やかに読むのにちょうどよい場所だった。
ザファルバーンの王子達は、それぞれ郊外に屋敷を与えられる。それはほとんど宮殿といっても差し支えない邸宅だった。もちろん、遠征ばかりの長子シャルル=ダ・フールにも、外れに屋敷を所有していた。もっとも、本人がそこを利用しているのはほとんど見なかったが。
そして、屋敷を与えられるとき、戸惑うレビにセジェシスはこの屋敷を選んで言った。
『だって、お日様の光を浴びられないなんて、そんな人生悲しいじゃねーか! それに、こういう場所のが、体にいいんだって!』
彼とは一滴の血もつながっていないセジェシスは、そうした理由からこの屋敷を彼にくれた。陽気なセジェシスは、血のつながらない彼にも、他の王子と同じように接してくれた。身よりのない、後見もいない彼にはセジェシスの優しさだけがたよりであった。
わずかな風に木の葉がしゃらしゃらと軽い音を立てる。レビは難しそうな異国の哲学書を読みながらくつろいでいた。古代の哲人の筆だというその本には、彼の知らない世界がまざまざと書かれている。元々高貴な生まれで、しかも病身のレビに、世間一般と世界を知る機会はほとんどない。彼は、本の中を通してでしか、世界を知ることができなかった。
がさり、と木の葉を踏む音が鳴り、レビは驚いて顔を上げた。木陰なので、影が落ちても気づかなかったのだ。
「あっちゃー、見つかっちゃったか」
軽くてやや甲高い感じの声を上げ、そこに立っていた青年は、癖ッ毛の頭をかきやった。巻き毛はこの地方には多いし、レビ自身も、セジェシスの息子達もそうだったが、ここまで酷いのは、彼と父セジェシスだけである。
「シャルル!」
レビは驚いたように言って、本を側に置いて立ち上がった。目の前にいる青年のしろい部分の多い三白眼が木陰でもくっきりと見える。彼は表情をくずして、へらっと笑った。
「やぁ、兄上。お久しぶり。最近お加減はどう?」
応えない兄を後目に、弟のシャルル=ダ・フールは、笑って続けた。
「いやさあ、読書中だったから、後でまた出直してこようと思ってたんだけど、見つかっちゃったみたいで」
「いいんだよ、呼びつけてくれればよかったのに」
レビは微笑みながら、彼より少し背の高いシャーを見上げる。
「いつ帰ってきたんだい?」
「いつって…ええと、ああ、昨日かなあ。つーても、一ヶ月後にはまた東方遠征に行かなきゃならんのですが…」
そういうシャーだったが、今日は珍しく青い普通の服装をしていた。レビは彼の様子を見ながら、甲冑姿以外の弟を見たのは、久しぶりだと思っていた。
シャルル=ダ・フールは、血の一滴もつながらない弟だが、弟たちの中でも、もっとも彼に気を遣ってくれていた。顔立ちはさっぱりちがうが、髪型と性格は、彼とセジェシスはよく似ている。彼自身は父のことが嫌いのようだが、セジェシス自身は多分彼のことを嫌っているとは思えない。その辺には、色々あるのだろう。
レビは、もう一度弟を見る。王子であるにもかかわらず、彼は例の東方風の剣をさげてはいるものの、従者をつれてはいない。
「シャルル…」
何かに気づいて口を開くレビだが、シャーは苦笑いしてそれを遮るように言った。
「あのねえ、兄上、シャルルはやめてくださいてば。オレは、シャーって呼ばれる方が落ち着くんだから〜」
シャーはそう言ったが、レビはそれには直接は応えなかった。
「もしかして、抜け出してきたのかい?」
「あはは、まぁ、そんなトコでしょうかな〜、いや、カッファがうるさくって……。たまには、オレも羽を伸ばしたいし〜」
そういって笑う様子は、年相応の若者だ。レビは何となく弟が不憫になる。レビはうつむいて呟いた。
「すまないね、シャルル」
「はっ? いや、だから、シャルルでなくシャーでいいんですってば」
シャーは、くるくるの髪の毛を軽く左手でいじりながら、レビをのぞき込む。この一年も年の離れていない兄は、また人の話を聞いていないのだろうか。が、レビは深刻な顔をしてうつむくばかりである。
「元々は、養子である私が君のように遠征に当たるべきなのに。体が弱いばかりに、君に迷惑を…」
「ああ、またそんな暗く…」
シャーは慌ててとりなしながら、笑っていった。
「もー、兄上は大げさなんだよねぇ…。いいんだってば、兄上は兄上なんだし」
シャーは、木の幹によりかかるようにして言った。
「オレは宮殿にいて、あのおばちゃん達の相手すんの苦手だからね。だから、こっちのが気楽でいいんだってば」
シャーの言うおばちゃんは、きっと妃達のことだろう。中には優しい妃もいるのだが、彼のことを敵視している妃達もいない訳ではない。どこの馬の骨ともわからないシャーに、王位を奪われるのではないかと、冷や冷やしている者もいるのは確かだ。
「シャルル…」
「だーから、シャーでいいってば。全く、兄上は気を遣いスギなんだよねぇ〜」
シャーはそう言って、あっと思い出したように肩から掛けていた袋に手を突っ込んだ。
「そうそう、兄上に色々おみやげがあるんだよ」
そういってシャーは二冊の本を取りだした。きちりと装丁された本は、結構古いもののようである。
「これは?」
首を傾げるレビに、シャーはそれを渡しながら言った。
「昔のえらい人が描いたって言う、昔の地理書だよ。上下巻なんだとか。地図ものってるし、そこの風俗も書かれてるんだ。その文字、オレには読めないんだけど、兄上なら読めるよね?」
「ああ、これは、西の古代の文字だね」
ぱらりとページをめくり、レビはその文字を読む。確かに、シャーがいったとおり、昔のえらい学者の書いたらしい文字が見える。そしてその横に、わずかに色を付けて描かれた図が見えた。がびがびの部分には、海岸線という説明がきが見える。
「これが地図なのかい」
「そうだよ〜ん。兄上は地理書みるの初めてでしたっけ?」
シャーは、そもそもよく動く瞳をきょろきょろと動かしながら、ページを少しめくって、地図の一端を指さした。異国の文字は読めないが、戦を指揮する立場上、地図を見る機会のある彼には、それがどこの地図であるか一目でわかる。
「ここがザファルバーンなんだってさ。鳥が見るとそういう風に見えてるのかもしれないよねえ」
「へえ、こっちが海なのかい?」
「ああ、そうですよ。海ってのは、青くてでかくて、波がうつ水たまりみたいなもんなんだよ。兄上はそういえば、見たことないんだっけ」
目を輝かせる兄に、シャーはそう丁寧に教えてやりながら髪の毛をいじり、右の方を指さした。
「こっちがオレのよく行く東方。ここ、可愛い娘が無茶苦茶多いんだよねえ。オレ、もう、目移りしちゃう」
「シャルルは色々な事を知っているんだね」
「いや、知るというより、見てるといった方がいいですけどね」
シャーは苦笑しながら、珍しく手放しに喜んでいる兄の様子に、少しだけホッとした。
「兄上だって、その内、加減がよくなればあちこちいって、色んな街やそこの女の子見られるわけで。だから、その前にちょっと予習しておいたほうがいいかなと思って。それでその本をおみやげに」
シャーは少し冗談めかしていった。
「なにせ、世の中には綺麗な娘さんが一杯いて、兄上だったら何もしないでももてるけど、やっぱり有利になるには、その土地の風俗を掴んでおくことが重要なんですよ〜。ま、オレは、失敗ばっかりしてるけど」
「ありがとう! シャルル!」
レビは感激した様子で礼をいう。だが、レビも本当はシャーが何故、これを買ってきたのかわかっている。ザファルバーンから離れられない自分に、広い世界を見せてくれるつもりだったのだろう。
レビはもう一度地理書を開く。それには、当時、彼らが知り得るこの世界の全ての知識が詰まっているといってもよかった。そして、シャーの語る内容も、彼の知らない世界の様子だった。
ザファルバーンの王都でも、この区切られた邸内と宮殿しか知らないレビにとって、それは新鮮で魅力的なものだった。彼にとっては、この本もシャーも、同じく世界を覗くための窓だった。だから、余計レビ=ダミアスは嬉しかったのである。
「ありがとう、いつか私も、私が読んでいる本について教えてあげられるかもしれない。何か必要になったら言っておくれ」
「あ、あはは、兄上が読んでるのって、ひたすら難しい本だよね…。オレ、理解できないと思うけど」
「とにかくありがとう! シャルル!」
話を聞いていない様子の兄に、シャーは名前を訂正するように言うのをやめた。とりあえず、いつもはあまり手放しに喜ばないレビの、そういう様子を見ると、自分も本を買ってきたかいがあるというものだ。
シャルル=ダ・フール即位の数年前。ある日のレビ=ダミアス邸の話である。
世界を知る弟と世界を知らない兄、後に二人で国を治めることになろうとはゆめゆめ知ることもない。
一覧