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料理屋の一幕

 がっしゃあんと音が鳴り、机が飛んだ。周りにおいていた椅子などが壊れ、がらがらとそこに転がる。
「もう、帰っておくれ」
 女主人は、怯えながらもしっかりした声で言った。
「うちのつけならどうでもいいよ。暴れにくるなら、こないでおくれ!」
「なんだと! このアマ!」
 暴れている男は、この辺のごろつきだ。
 新興国ザファルバーン。その王都であるこの砂漠のオアシス都市の片隅に、カタスレニアといわれる一地区がある。この地区自体はそう治安が悪くないのであるが、周りをいくつかの暗黒組織の勢力範囲に取り囲まれており、抗争に巻き込まれやすい地区でもある。そのために、この周辺の町中には、常にごろつきどもが徘徊しているのだった。
 だから、この女主人もこうしたことにはなれていた。
「かえってほしかったら酒でもよこせよ!」
「…またそれかい」
 女主人はため息をつく。いい加減、いつまでこの堂々巡りをやれば気が済むのか。だが、当分この地区に平和が訪れることはなさそうだ。


 今日もなかなかいい稼ぎになった。酒瓶を一本抱えながら、男は料理屋から出た。この周辺で大切なのは、いかに脅迫できるかということである。それができなければ、彼のような小物は生き残れない。
 ふいにひらりと何かが動いたような気がした。男は思わず目を細める。向こう側の暗い路地裏にやはりひらりと何かが動く。人影かもしれない。
「ん? そこにいるのは誰だ?」
 酔っぱらってややろれつのおかしくなった状態で、男は影に呼びかける。その影はひょろりとほそく、たとえ人間でもたいした脅威には思えない。だから、男はへらへらしながら、その影から目を離した。
 そのとき、ふと影がこちらに走ってきたのがわかった。
 急に喉をつかまれて、男はひっと声を上げた。後ろから来た影は頼りにもならないひょろひょろしたものだったのに、彼の喉をつかんだ手の力は凄まじい。ぎりぎり片手でしめあげられて、男は慌てた。相手の顔は逆光で見えない。ただ、青みがかった瞳だけが、妙に印象的に見えた。あるいは、それは幻覚なのかもしれないが。
「こんなことはもうやめるよな?」
 相手の男は低い声で訊いた。男は口から泡を吹き始め、慌てて首を縦に振る。それを確かめてから、目の前の相手は口をゆがめたように見えた。それから、目の前の人影は男から手を放した。壁にもたれかかったまま、男はがたがたと崩れ落ちた。ふと目の前の人影がきびすを返したのがわかる。
「…今後ここによりつくなよ」
 低い声がぽつりと響き、男の薄れかけた意識に届いてきた。それをきいたか訊かなかない内に、男は気を失った。

 
 かたんと音が鳴った。女主人は、びくりと顔をあげる。また、あの男が戻ってきたのかと思ったのである。
 店の扉が開き、一人の男がはいってくる。ひょろっとした体格に、青いマントにうす水色の服。首の辺りは黄色の詰め襟になっていて、少し異国風だ。旅人かもしれない。
 髪の毛は、やや癖の強い巻き毛の黒髪で、それをひとまとめにして高く結い上げている。だが、彼の顔を見て何よりもすぐに気づくのは、その少しぎょろりとした大きな目の三白眼だろう。のぞき込めばわずかに青みがかった色の瞳は、ランプの色に照らされて、わずかにオレンジにさえ見えた。まだかなり若いらしいが、妙な落ち着きも感じられる。
 それは一瞬不審にみえたが、彼はにっと人なつこい笑みを浮かべて、調子よく話しかけてきた。
「こんばんは〜! これだけで、食べられるご飯ある?」
 そういって、財布から取りだした銅貨を三枚ひらひらと振った。
「え、ああ。ありますよ」
 女主人は、その笑みにつられて慌てて微笑んだ。先ほどの男でないばかりでなく、お客は何となく愛想がよい。その顔を見ると、女主人は何となくほっとした。
「そう? じゃあ、お願いします〜」
 といっても、銅貨三枚ぐらいでは、パンが一つぐらいしか食べられない。女主人は、何となくこの人当たりの良さそうな青年が可哀想になった。
「わかりましたわ」
 そう答え、彼女はパンに肉を一切れつけ、さらにスープをつけてやった。
「あれ…? これ……」
 さすがに銅貨三枚では多すぎることに、青年も気づいたようだった。女主人はにっこりと笑った。
「いいんですよ。旅人さんを優しくお迎えするのが、この国の習慣ですし。それに…」
 何となく彼の顔を見ると気が楽になるようだった。彼を取り巻くのんきそうな空気がそう思わせるのか、それとも彼の顔立ちがそう思わせるのかはよくわからない。ただ、この空気が、すさんだ女主人には救いに思えたのである。
「とにかく、召し上がってください」
「うわー、すごい! ありがとう〜!!」
 青年は手放しで喜び、満面の笑みを浮かべて、差し出されたパンにかぶりついた。それをむしゃむしゃと食べながら、不意に青年は声をかけた。
「このあたりの連中、たちわるいよねえ。オレもね、さっき絡まれそうになったんだよ」
「それはそれは…。気をつけないとこのあたりは本当に危ないんですよ」
 女主人は気の毒そうにいったが、青年はへらりと笑った。
「でも、オレねえ、勘がすっごいいいの。だからわかるんだよ、あいつ、しばらくここに寄りつかないんじゃないかなあ」
 女主人はその言い方に首を傾げた。気のせいだと思うのだが、今のこの青年の言いぐさは、まるで先ほどの一件を知っているように思える。
「あら、どうしてですか?」
「さあ、なんかそういう気がするんだ」
 彼はそういい、もらったスープをうまそうに飲んだ。
 まさか、女主人は、外で先ほどでていった連中が、店を出たすぐの曲がり角で、気絶しているなどとは想像してもいなかった。
 よもや、その青年が、これからこのカタスレニアのごろつきどもに慕われる人物になることも、彼女は知らない。
 むろん、名乗らなかったこの青年の名がシャー=ルギィズであることも。





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