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苦い昼の挿話-8

 ジャッキールが、彼の持ち場を訪れたのは一刻ほどしてからだっただろうか。
 まだ常よりも真っ青な顔をしていてふらついていたが、いくらか落ち着いた様子にはなっていた。左手には真新しい包帯を巻いていたが、どうやら大したことはなさそうだ。
「なんだ、貴様、今日は寝ていたほうがいいぞ」
 ザハークは、開口一番そんなことを無遠慮に言った。まだジャッキールが何も言い出さないうちにである。ごろりと横になっていた彼は身を起こして胡坐をかくと、顎に手を乗せながらため息をつく。
「今日は暑い日だったからな。それだけでも不調になろうものだというのに、無理をするからああなる」
「いや、もう大丈夫だ」
 ジャッキールは憔悴した様子だったが、今はもう落ち着いていた。
「先ほどは、すまなかった。貴様には、ずいぶん迷惑をかけてしまったようだ」
 ジャッキールは、珍しく素直に謝ってきた。
 どうやら、本当に先ほどの謝罪の為に彼のもとを訪れたようである。普段の彼からは考えられない行動ではあるが、ザハークは別に意外とも思わなかった。この男が初対面の相手に、一見高圧的な態度を取るのも、そもそもはかつて裏切られたことからくる人間不信がさせるものだ。ただ自分を守っているだけのことで、本来非常に律儀で繊細な性格である彼が、正気に戻ったとたんに、先程の件を非常に気に病んでいるだろうことは、最初から予想がついていた。
「なんだ、そんなことか。そんな調子悪そうな面で謝りに来られる方が気を遣う。帰ってとっとと寝ろ」
 ザハークは、思わず苦笑した。だが、ジャッキールは俯いたまま生真面目に答えた。
「貴様はそういうだろうが、一言謝らなければ俺の気が収まらん。本当にすまなかった」
「ははは、そんな素直だとは、いっそのこと不気味だな。エーリッヒ?」
 ザハークはそう茶化してみるが、ジャッキールはそれに対していつものようには反応してこなかった。
「俺は、貴様と勝負するときはなるべく平静の状態を保ちたく思っている。それが礼儀であるし、例え、そんな状態で貴様に勝てたとしても、それは俺が勝てたという意味ではない。今日は迷惑をかけただけでなく、貴様に対して礼を失した」
 ジャッキールは、落ち込んだ様子になっていた。
「あんな風になったことは、今までにはさすがになかったのだ」
 彼はうつむいて額を押さえた。まだ頭が痛むのかもしれない。
「どうも調子が悪いらしいな」
 ザハークは、さすがに少し優しげな声になっていた。
「このところ、どうも記憶がなくなる時間が多くなっていてな。俺にも、何がどうなのかわからんのだ。昔の傷のせいなら、時間の経過とともに治るかと思っていたのだが、こうも悪化するばかりとは……」
 ジャッキールは、そういって深いため息をついた。
「忙しいからだろう? 隊長職だからな、貴様は。少し暇をもらったらどうだ。気が楽になる」
 ザハークは、敢えて軽い言い回しを選んでいた。
「それに、古傷が原因なら医者に診てもらえばよかろう? この地域の医者は、質が良いのだぞ?」
 ザハークがそういうと、ジャッキールはますます暗い顔になっていた。
「医者には、……治らないと言われたのだ……」
 ジャッキールは沈痛な面持ちでつぶやいた。
 ほとんど語られることのない彼の身の上話の一部を、ザハークが聞いたのはその時のことだった。
 かつて主君をもっていたこと。味方に裏切られ、戦場で孤立し、部下を見殺しにせざるを得なかったこと。彼自身も、戦闘中に頭を何度も打ち付けられて、以降の記憶がなくなってしまったこと。そして、味方の援軍が来たとき、部下と敵の死骸が転がる中彼だけが生き残り、自分の血と返り血に塗れながらひたすら笑い声をあげていたらしいこと。
 奇跡的に一命を取り止めたが、その後の彼は戦闘中は狂気に支配された。悪霊に取り憑かれたのだと噂され、また彼自身も人間不信に陥り、到底今までと同じ生活はできなくなってしまった。
 彼は、すべてその時の怪我によるものだと考えているようだった。戦闘を楽しみながら、そんな自分に不安を覚えた彼は、あちらこちらの医者を訪ね歩いた。傭兵業で蓄えた金を積んでは、名医と呼ばれる医者をほうぼうで訪ねた。先日も、リオルダーナ王族専属の医者だという男に相談をしたが、どの医者も結局返答は同じだった。
「どいつもこいつも同じ返答ばかりだった。今の医学では治せない。いっそのこと、悪霊でも取りついているのでは? 悪魔祓いでもしたらどうかとな。そんなもので治るなら、こんなに悩んでなどいるものか!」
 ジャッキールは自嘲的に笑ったが、すぐに笑みは消え去っていた。
「俺は死ぬのは怖くはない。あの時に死に損なっただけの男だ。自決に意味を見いだせず、あの時に死に損なったことを取り戻すかのように、死に場所を探して戦場をさまよっているだけだ。戦場で死ねるなら、死に場所はどこでもいい。それなのに」
 ジャッキールは、ぐっとこぶしを握った。
「本当に、……俺は惨めなものだな。生きる意味も死ぬ意味も見出だせないうちに、狂気に蝕まれて自分すら失いかけている。しかし、何をしているかわからなくなっていても、戦場で死ねるならまだいい。あの状態になった俺は、大抵生き延びてしまう。自分が何をしているのかもわからなくなっているのにな!」
 静かに話していたジャッキールだったが、その声には徐々に感情がこもりだしていた。
「だが生還して何になるというのだ! 俺が俺でなくなってしまっては、どれほど強くなろうが、生還しようが、何の意味もないのに!!」
 ザハークは、この男がこんな風に激情を吐露するのを初めて見た。
「このまま、俺が俺でなくなってしまうのは、それだけには堪えられんのだ!」
握りしめたジャッキールの拳が震え、かすかに左手の包帯に血がにじみだしていた。
 ザハークはそれを黙って横目に見ていたが、しばらくしてからゆっくりと口を開いた。
「それが貴様に与えられた天恵ではないのか?」
「何?」
 ジャッキールは、険しい表情のまま眉根を寄せた。
「貴様の狂気は、貴様が生き延びる上で必要なものであったのなら、それは神が与えたものなのかもしれないではないか」
 ザハークは、落ち着いた口調で言った。
「貴様が戦場で死なぬのが貴様の意思ではないのだとしたら、それは天の意思に等しい。何故死を望んでも貴様が死なないのか、それは神がまだ貴様を生かそうとしているということに違いない。……貴様にはまだ使命があるのだろう。まだ死ぬべきではないのだ」
「何が神だ!」
 ジャッキールは吐き捨てる。
「俺は神など信じない。よしんば神がいたとして、俺にこんな宿命を背負わせるような存在を認めるはずもない!」
 憎悪すら漂わせ、ジャッキールはそういい捨て、頭が痛むのか額を押さえてうなだれた。やや興奮したからか、息が少し乱れていた。それを押しとどめるように、ザハークはやんわりといった。
「ふふ、つくづく救われん男だな、貴様も。まあ、それもよかろう」
 ザハークは苦笑した。
「しかし、貴様がそんな心配をする必要はそもそもないではないか」
 ジャッキールが顔を上げると、続けて彼は当然のように言った。
「貴様の首は俺がもらうと決まっているのだ。貴様が狂気に飲まれて自分でなくなるというのなら、その前に俺が貴様を殺してやる」
 まあ、とザハークはあくまで軽い調子で言った。
「機会があれば、もちろんそれまでに殺すかもしれないが。そんなわけで、どうせ貴様の首は俺のものなのだ。どうせ死ねるのだから、何も心配をすることもなかろう」
 ジャッキールは、しばらく無言でにらみつけるように彼の顔を見ていた。
 そして、唐突にふっと笑い出した。
「……貴様は、本当に気に入らんことを言う男だ」
 ジャッキールは、口の端を歪めて憎らしそうに言った。
「本当に腹立たしい。俺の体調が悪くなければ、今すぐその首飛ばしてやるところだったのにな。……残念だ」
「そうか。俺も今日は疲れていてな。荒事はうんざりだ。貴様の調子が悪くてよかった」
 ザハークはどこまで本気なのかわからないようなことを言い、にんまりと笑った。

 *

 シャーは、静かにその話を聞いていた。
 ザハークはというとこんな話をしながらも、無神経に焼き菓子を頬張っていたが、さすがに話の内容のせいか、いつもほどの陽気さはなかった。シャーは手に器を持っていたが、中の飲み物は冷めきっていた。
「蛇王さん、一つ聞いていい?」
 少しの沈黙の後、シャーは唐突に尋ねてみた。
「なんだ?」
「どうしてオレにそんなこと話してくれたんだ?」
 シャーは、上目遣いに彼に尋ねた。
「オレは、蛇王さんは、そんな何でもかんでも話すような人じゃないと思ってるんだぜ」
 シャーは結局飲まなかった茶を傍において、腕を組んだ。
「蛇王さんは、当然オレの正体も知ってるだろうけど、そんな話を、頼んでもないのに誰もしなかっただろ。それはオレが隠してるのを知ってるからだ。今のダンナの話だって、あんたは全部包み隠さずいったわけじゃないよね。多分、敢えて言わなかった部分だってあるはずなんだ」
 ザハークは黙っている。相変わらず、その表情から彼の真意を探るのは至難の業だ。
「ジャッキールは、自分が弱った時の話なんかしない男だと思ってるぜ。他人に話されるのも多分嫌うだろう。蛇王さんもそれはよく知ってるから、ダンナについての話は、オレに話しても支障のない話だけを選んでしてたと思う。……だから、さっきの話だけはちょっと重たすぎるんだよな」
 シャーは、真面目な顔になっていた。
「蛇王さんが、敢えてオレにジャッキールの話をしたのは、何か意味があるんだろう?」
「ふふふ、それはどうかな」
 ザハークは、相変わらず何を考えているのかわからない顔だ。少し意地悪っぽくすら見える無邪気な笑みを浮かべて、彼は笑った。
「それはちと買いかぶりかもしれんぞ。俺は物事をそんなに深く考える方ではない。つい、口を滑らせることもままある」
 ザハークはシャーと対照的にのんびりと茶を啜りつつ、にやりとした。
「そんなに深く考えなくとも、俺が口を滑らせたのだと考えてくれていればいいぞ」
「ちぇっ、蛇王さんも一筋縄ではいかないね」
 シャーはあきらめたようにため息をついて、菓子を口の中に入れた。
「それはそうと。あの大東征の時、貴様はエーリッヒとも戦っただろう? 俺と戦う前のことだ」
 不意にそうやってふられてシャーは、菓子をかじりながらうなずいた。
「ああ、覚えてるよ。ダンナはちょっと剣にクセがあるからね。やたら強くて印象も強かったし、太刀筋のクセを覚えてた。顔は全然覚えてなかったんだけどね」
 シャーは焼き菓子を口の中でかみ砕きつつ、ふむと唸った。
「でも、あの時、ジャッキールのやつ、意外とアッサリと引き下がったんだよな。オレは仮面吹っ飛ばされたりしてて、ちょっとヤバイかなと思ってたんだけど、追撃が甘かったんだ。ダンナも蛇王さんみたいに、オレのこと餓鬼だと思って手加減しやがったのかな」
「さあ、それはどうかな。でも、まあ、奴は俺と違って、本当に慈悲深く優しい男だからな」
「やっぱりそうなんだろうな。ちぇっ、なんか面白くねえの」
 手加減されていたとすれば、それはそれでちょっと腹が立つ気もする。ちょっと不服そうなシャーを見ながら、ザハークは面白そうに言った。
「そんな顔をするな。奴は俺と違って、お前の顔も覚えていたのだろう?」
「そういえばそうだった。確かに素顔を見られてはいたけど、一瞬しか見てない筈なのに。……なんでダンナは俺の顔を覚えていたんだろうな?」
 不思議そうにいうシャーに、ははは、とザハークは笑った。
「あの頃の奴は、お前に惚れこんでいたからな。思い入れが深いので覚えていたに決まっている。あれほどの将軍を殺すのは惜しい、戦場で指揮を執るべきものはかくあるべし、と常々口にしていたものだ。第一、俺が貴様を撃ち落とした時など、一番落ち込んでいたのは奴だったぞ」
「え? そ、そうなの?」
 そんなにべた褒めされているとは知らなかった。シャーはちょっと照れくさくなりつつ、
「そんなの聞いたの初耳だよ。ダンナ、オレのことそんな褒めてくれないもん」
「あの男が本人の前でそんなことをいうわけがないだろうが。意外と素直ではないからなー」
 ザハークはにやにやしながらそういう。
 しかし、シャーはすぐに少ししょげたように片膝を抱えた。
「でも、それじゃ、ダンナ、がっかりしたんだろうな」
「何故だ?」
 彼が悄然とした意味が分からず、ザハークはきょとんとした。
「オレ、本当は、こんな感じでダメ男だもん。すぐにへこたれるし、ダンナが思ってたほど強くもなきゃあ、強い意思も統率力もないんだ。そんなことをダンナにはもう知られてるわけだよ」
 シャーはうつむいてため息をついた。
「おまけに働くのキライだし、こうやって日中ゴロゴロしてるわけだろ……。ジャッキールのやつ、いい人だから何も言わないけど、オレの本当の姿見て、幻滅しちゃったんだろうな……」
 ザハークは、ふふふと笑った。
「はは、お前もエーリッヒと同じだな」
 ザハークに笑われて、シャーはきょとんとした。
「強いだけが魅力ではないというのに、自分の弱いところを見せることができないのだからな。損な性分だな」
 ザハークは、シャーを見ながらにやりとした。 
「第一、もし、奴が青兜としてのお前にそのまま惚れこんでいたのなら、奴はお前を今日のように部屋にあげて甘やかしたりしないぞ」
「え、何でさ?」
「あいつは、主従関係を結んだ相手に私情は一切挟まん。一度忠誠を誓えば、それは死をいとわず働くかもしれないが、甘やかしもしなければ叱りつけたりもしないだろうな。それでは、お前も寂しいだろうし、そんな状態のエーリッヒは間違いなく早死にする。お互いの為によかったではないか」
 と、ザハークは右だけ頬杖をつきながら、にんまりとした。
「第一、奴がこの街で少し正気に戻ったのは、お前のお陰ではないのかと俺は思っているのだ。だから、俺は個人的にお前には感謝している」
「ええ? オレの? なにそれ?」
 シャーは目を瞬かせる。
「オレ、別にダンナに何もしてないよ? ていうか、幻滅させただけだってのに、何でさ?」
「さあ、エーリッヒが何を考えてるのか俺にはわからんが……」
 ザハークは言い切っておきながら、今更、無責任にあいまいに答えをぼかす。
「ま、生き甲斐でも見つけたんだろう」
 意味が分からずに困惑気味のシャーに、ザハークはにやりと面白そうに笑うのだ。 
「お前がいると頻繁に部屋に居座られるし、掃除もしなければいかんしな」
 どういう意味かとシャーが聞こうとしたとき、いきなり、入り口の扉が勢いよく開いた。
「やはりか! 蛇王、きっさまあああ!」
 そう怒号を発しながら部屋に飛び込んできたのは、この部屋の持ち主であるジャッキールである。
「うわあ〜、帰ってきちゃった」
「相変わらず、うるさい奴だな」
 うんざりとするザハークと対照的に、ジャッキールはさっそく部屋のチェックをしていたが、案の定、菓子をぼろぼろ床に落とされているのを見て頭を抱える。
「ああああ、お、俺が一生懸命、磨き上げた床に焼き菓子の粉がああああ!」
「大げさなやつだなー。いいではないか、茶を盛大にひっくり返しもしていないし、室内で弓の練習も剣も練習もしていないぞ」
「そんなことをしていたら、部屋に入った時点で貴様の首を落としにかかっているわ!」
 ジャッキールは素早く剣ではなく箒を握っていたが、きっとシャーの方を睨みつける。
「大体貴様も貴様だ! 何故こんな不審者を家にあげたのだ!」
「へ、不審者って、ダンナ、蛇王さんじゃん。お友達っていうとアンタ達否定するから言わないけど、よく知ってる顔じゃん」
「こんなヒゲの大男、知った顔だろうがなんだろうが、不審者以外のなにものでもないだろうがっ!」
「えー、ちょっと、ダンナ、それ言い過ぎだよ」
 シャーはあきれながら肩をすくめた。
(というか、そんなこと言ったら、青ざめた顔でふらふら歩いてるあんただって十分不審じゃん)
 と、思わず言いそうになったが、うっかり言ったら血を見そうなので言わない。いやまあ、持っているのは剣ではなく、箒なのでどうもしまらないのだが。
「い、いいじゃん、ダンナ、お掃除スキでしょ? 汚れがなければお掃除だって意味ないじゃん」
「黙れ。まったく、これだから貴様等に家を教えるのは嫌だったのだ」
 ジャッキールは、さっそく掃き掃除しながらため息をつく。
「で、でも、ダンナのお宅、すごく居心地いいもんだからさあ、ついついと……」
 シャーは、恐る恐る声をかけてみたが、ジャッキールは不機嫌だ。その様子を見つつ、シャーは少し声色を落とした。
「いや、その……、ダンナが、オレに本気で迷惑してるなら、オレ、もう来ないけど……。ダンナ、オレが、真昼間からこんなゴロゴロしてるの見たくないんだろうね」
 そう聞かれてジャッキールは、掃き掃除の手を止めた。何を言い出すのかと思ったのか、少し驚いた顔をしていた。
「ゴロゴロされて迷惑だが、別に来るなとは言っていない。知られたならどうせこうなるとは思っていたしな。路上でゴロゴロ寝てる貴様を見るよりはマシだ。前に筵被って寝ているのを見かけたときは、一瞬、刺そうかと思った」
「そ、そんなおっかねえこと……。アンタに刺されたら間違いなく死んじゃうじゃん」
 ジャッキールは、眉根を寄せて怪訝そうに尋ねてくる。
「大体、何故そんなことを言い出す。貴様にしてはずいぶん殊勝ではないか?」
「い、いやあ、別に、何でってことないんだけどね」
 シャーは先程のザハークの語った話が頭をよぎっているので、少し歯切れが悪い。まさかそんな話を彼から聞いたとも言えない。
「いやそのー、オレ、本当はいつもこんな感じでだらけてるから。でも、ダンナは、昔のオレのこととか、知ってるからさ。それ考えると、もうちょっとしゃっきりしろよって思ってるかなあって」
 ジャッキールは、思わず苦笑した。
「さあな。しかし、別に無理して昔のようにふるまう必要もないのだろう。俺は別に今の貴様が悪いとは思わない。……まあ、たまには働けとは思っているが」
「あ、ゴメン。残念だけど、オレ、真面目に一日働くと死んじゃうからそれには答えらんない」
「そういうのを聞くと叩き出したくはなるな」
 ジャッキールは眉間にしわを寄せて、軽くシャーを睨みつけた。と、その時、ふと台所の方からガサゴソと音が聞こえた。
「おい、エーリッヒ、香辛料はどこだ。紅茶に入れたいんだが、このあたりにあるのだろう?」
 ジャッキールは慌てた。いつの間にかザハークが消えている。
「ちょ、ちょっと待て! 姿が見えないと思ったら! 勝手に触るな! 俺の台所の秩序が乱れる!!」
「そうだ。その焼き菓子、なんだかんだでうまいから、香辛料の代わりに貴様にくれてやるぞ。ということで、ちょっと分けてもらうからな!」
「こら、蛇王、待て! 俺の台所のモノの配置には、規則というものがあるんだぞ! 触るな、やめろ、殺すぞ蛇王!」
 まったく人の話を聞いていないザハークの様子に、ジャッキールは絶望的な顔で首を振ったあと、箒を置いて台所に入った。ザハークのやりたい放題にさせると、おそらくジャッキールの作り上げた台所の秩序は崩壊するのだろう。
 向こうから何やら不毛なやりとりが、具体的には、ジャッキールが、ヒゲ死ねなどと連呼しているのが聞こえた。
「ったく、イイ話聞いて、ちょっとは見直したのに……。何しょうもないことで争ってんの、あのヒトたちさ」
 シャーはあきれ返った様子で、ため息をついた。
 その時、ふと扉がかちゃりと開いて、ゼダが顔をのぞかせる。どうやら声が外まで聞こえているらしく、ゼダはすでにニヤニヤしていた。
「なーんだ、もうみんなお揃いなんだな。しかも、さっそく、しょうもねえ争いしてやんの。あの二人見てるとあきねえなあ」
「まったくだぜ。本当、イイ年のオッサンが何やってんだよなあ」
 シャーは、やや辛辣なことを言い捨てながら、しかし、ちょっと苦々しく笑うのだった。
「でも、結局、ダンナも蛇王さんもなんだかんだでトモダチなんだよな。ったく、アンタらも、お互い素直じゃねえよ」

苦い昼の挿話・完

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