一覧 進む


苦い昼の挿話-1



  王都郊外の平日の昼下がりは、意外に静かに過ぎていくものだった。先日の騒ぎもすっかりおさまった王都は、まさに平和を絵に描いたようなだらけた安穏を漂わせ、眠気を覚えそうなほど心地よく気だるい。
 そんな平穏な空気の中、難しい顔をしてジャッキールは、途方にくれて今日は何度目かわからないため息をついていた。
「はははははっ、この本、結構おもしれーじゃん」
 そんな彼の心も知らず、気楽に笑い声を上げる男が一人。
(……ゴミが!)
 綺麗に整理整頓された質素な部屋。綺麗好きで几帳面な彼の部屋は、いかにも秩序に満ちている。本来は、古い長屋の一角であり、けして綺麗な部屋ではなかったのだが、そこは彼の努力により綺麗に磨き上げた上で修復もした。彼にとっては、非常に居心地のいい部屋に仕上げたものだった。
 簡素ながら実用的な家具を揃え、本や日用品をあるべきところにきっちり並べ、寝具や調度品も清潔感がある。豪華とはいえないが、住み良い住宅を目指しているのだ。
 唯一物騒なのは、寝台のすぐ傍の刀掛けに刀剣類が綺麗に並んでいることで、それだけが他の調度品とは場違いに豪奢で高価なものだった。刀剣類は傭兵である彼にとっては商売道具であり実用品であるものの、実のところ彼は刀剣に関しては収集癖があり、抑制的な彼ながらそれらにつけては金に糸目をつけずに集めているらしい。その中でももっとも美しく気品が溢れているのが、彼が恋人同然に大切にしている魔剣フェブリスである。
 ともあれ、この部屋は彼にとっては、非常に理想に近い部屋だった。もともと、決まった主人を持たず、職を探して転々としてきた彼にとって、定住という行為はある種の憧れがあったのだ。もっともラゲイラに雇われていた時は、定住していたようなものではあったが、今回は市井の人間に混じって非常にマジメで穏やかな、いわばカタギ生活をしているのである。そこで作り上げられた質素で小さいながらも秩序に満ちた理想のお部屋。
 そんな理想の部屋の中に、明らかに彼の好む秩序とは真反対の男が、椅子を二つつなげた上にごろんと横になって本を読んでいるのだ。うっかりと彼にゴミ呼ばわりしそうなのを我慢するのも大変だ。
(こいつ……!)
 ジャッキールはそれを視界にみとめるや否やイラッとしてしまいながらも、相手のペースにはまると負けだと思い直して冷静さを取り戻す。
「いつまでそうしているつもりだ?」
 ジャッキールは、やや諦め気味にそう尋ねると、いつもの通り、シャー=ルギィズは上目遣いに彼を見た。上を見ているせいで、今日はいつもよりも白目の多い例の三白眼がぐるりと彼を向いていた。
「いつまでって、いいじゃん。まだ昼でそ? 夕方まで置いてくれたっていいじゃん」
 シャーは、悪びれずにそんなことを言う。
「何だって俺のところに来るのだ」
「ダンナの家、居心地いいからねー。しかも安全だし、いやあ、オレってさびしがりやだし、一人でいるの退屈な時にちょうどいいよね、ダンナのおうち」
(やはり、こいつに家を知られたのはまずかった)
 ジャッキールは、首を振った。こうなるのが目に見えていたので、極力シャーやゼダには所在を隠していたのだったが。リーフィにもっと口止めをしておくべきだっただろうか。
 ジャッキールは、何度となくついてきたため息を再びついて、改めてシャーを見た。
 なんというか、だらけている。存在が。
 相変らずの様子に、ゴミとして掃きだしてしまいたい欲求をジャッキールはぐっと押さえる。別に極端に薄汚れた服装をしているわけではないが、相変らずの青を基調とした上下の衣服は着古されたもので、いつもどおりのサンダル履き。その服装をしている時の彼は、存在感がなんというべきか非常に俗っぽく、雑多な印象なのだった。そのせいか、何となく鬱陶しくもある。ジャッキールはこの男の正体も本来の身分も知っているのだが、それにしたってこんな風に混沌としているのは何故だろう。もう少しどうにかなってもいいのではないか。
 ただ、今日のシャーは一点だけ、妙にキッチリしている部分がある。
「珍しく今日はめかしこんでいるではないか」
 ジャッキールは、シャーの頭に目を留めながら言った。シャーは、元々癖が強い髪の毛で、まとまらないので長くして結い上げている事情があるのだが、当然ぴしっと綺麗にしていることは少ない。ところが、今日は珍しく櫛をつかって綺麗にしているうえに、横を編み上げているなど手が込んでいた。当然、彼自身がこんなことをするはずもなく、彼にこのようなことを施す心当たりも一人しかいない。
「リーフィさんにしてもらったんだろう? どこかに一緒に行くのではないのか?」
 と、そう尋ねたところで、シャーがぴくんと反応した。
「時間待ちに俺の家を使うのはいいが、あまりだらだらしてると……」
「ご冗談。硬派なオレ様が女子供と一緒にでかけるわけねーし」
 シャーが、仏頂面でそんなことをいう。その反応に、む、とジャッキールは腕組みを解いた。どうやら冗談で言っているわけでもなさそうだ。
「また何を拗ねているのかしらんが……」
「拗ねてるんじゃないの。オレは、元から女なんて信用しねーの」
 シャーは、ますます口を尖らせる。
 もともとこの男、女好きに見えて女性不信の気がある。それが深刻な方に傾くと、かなり厄介らしいのを感じ取っているジャッキールは、やや心配になってきた。
「ど、どうした? 喧嘩でもしたのか?」
 がば、とシャーは起き上がる。いつの間にやら、膨れっ面になっていた。
「絶対、オレと遊んだ方が楽しいに決まってるのに」
「は?」
 真剣な顔でぼそりと呟くシャーに、ジャッキールはきょとんとした。
「リーフィちゃんてば、オレと遊んだ方が絶対に楽しいのに、新しい友達を優先したんだよっ!」
「なんだ?」
「何が女の友情だい! 絶ッ対、オレと遊んだ方が楽しいし、色々冒険できるし、リーフィちゃんはそんな女の子とキャッキャウフフしながらお買い物してるより、野郎共の中で何故かちょこんと座って話聞いてる方が絶対輝く子なんだよ! ダンナもそう思うだろ?」
 いきなりそう持論をまくし立ててくる。
「は、はあ、何を言っているのか、いまいちよくわからんが」
 ジャッキールは、シャーの不満そうな様子にやや気圧されつつ言った。
「まあいい、話はきいてやるから説明しろ」
 シャーが悔しげに語ったのは、以下のようなことであった。


「リーフィちゃんさあ、それって面白い?」
 頭の上から降ってくる鼻歌をききながら、シャーはふいに視線を上げた。リーフィは、シャーの額の横の髪を編み上げているところだった。
「面白いわ」
 リーフィは、当然とばかりに答える。
「オレはあんまり面白くなんだけど……」
「女の子同士なら、楽しい遊びなんだけれどねえ。酒場の女の子の髪の毛を結ってあげたり、私も結ってもらったりするのよ」
「ふーん、そうなんだー」
(オレは一応男なんだけど……。リーフィちゃんの中で、オレの位置づけって一体……)
 シャーは、気のない返事をしつつも内心そんなことを思い、今日、髪をきっちり整えてこなかったことを後悔していた。
 その日は、リーフィは休みだったが、シャーは朝からリーフィの家に招かれていた。というのは、この間ザハークとの戦闘でボロボロにしてしまった服をつくろってもらっていて、それが出来上がったので取りにきて欲しいといわれていたからだった。
 シャーにとって不幸だったのは、うっかり寝起きのぼさぼさ頭で彼女の元を訪れたことだった。リーフィに身だしなみ指導をされて、髪の毛をこの間のように整えられ――、もとい遊ばれてしまったのだ。どうも、この間ので味を占めたらしい。リーフィにしてみれば、癖が強くて長さもあるシャーの髪などは、攻略対象として燃えるものだったのかもしれない。良い玩具なのだった。
 リーフィが何をしでかすかわからないことを含め、シャーはドキドキであったが、とはいえ髪の毛を整えてくれるのだから、この後どこかに一緒に遊びにいけるのかもしれないと淡い期待を抱いていた。その日のリーフィは、よそ行きのオシャレな衣服で髪型も少し変えていたのだ。それにここのところ、リーフィは休みの日によく彼と遊んでくれるのである。男子として認識してもらっているかどうか謎であるが、女子同士ではやるという、このコミュニケーションがなされているからには、一定の信頼関係はあるはずだ。ここは好意的にとらえるべきだ。
 そんなことにぼんやり思いをはせていると、最後に櫛で髪を念入りにとかしていたリーフィが、ふと手を止めた。
「はい、出来たわ。かっこよくなったでしょ?」
 と鏡を見せられる。いつも以上にすっきりした上に、我ながらなかなか似合っている。こうしてみるとオレもそれなり……とちょっとシャーが調子に乗ったことを考えていたところで、リーフィの家の扉が叩かれた。はーい、開いてるわよ、とリーフィが声をかけた。
 女の子の声が聞こえたので、近所の友達か何かかなと思ったが、そこから現れたのは、シャーにも見覚えのある人物だった。
「遅くなっちゃってごめんね」
「ううん、ちょうど良かったわ」
 そこでリーフィと話しているのは、髪の毛を編んでお下げにした娘だ。どちらかというとおっとりしたリーフィに比べてかなり快活な雰囲気で、目の大きな顔立ちが印象的だ。
「あれっ? ラティーナちゃん!」
 シャーは、瞬時に彼女が誰であるのか知って、やや飛び上がるようにして立ち上がった。
「あれ? シャーも来てたの?」 
 そこに現れたのは、間違いなくラティーナだった。この間の一件で、リーフィとラティーナは随分と親しくなっているのだったが、それにしても普段から遊びに来ているとは知らなかった。ラティーナは目をしばたかせるシャーを尻目に、シャーの髪に目を止めた。
「それ、リーフィにしてもらったの? なかなかかっこいいじゃない」
「え、マジ? うれしいなあ。そんなこと言われると」
 と答えつつ、シャーはきょとんとしたまま尋ねてみる。
「あれ、ラティーナちゃん、今日はどうしたの?」
「どうしたのって? 遊びに来たに決まってるじゃないの」
 ラティーナは当然といった様子で答えた。それを見ていたリーフィが補足する。
「今日はね、ラティーナと一緒にお買い物に行く約束をしているの」
「そうなの。リーフィに、おすすめのお店を案内してもらおうと思って。ほら、新しい服も欲しいしね」
「そ、そうなんだ」
 おすすめのお店。女の子の買い物。話の流れにシャーは、ちょっと嫌な予感がしたものだった。そんな彼の心を読んだかのようにラティーナがズバリといった。
「あ、今日、シャーはついて来ちゃだめだからね」
「ええっ、ちょっ、なんで?」
「女の子の買い物についてくるなんて、退屈でしょ?」
「そ、そんなこと、ないっすよ」
 やや図星をさされた形になりながらも、シャーは首を振る。今日のシャーは、既にリーフィと遊ぶつもりでいるのだ。ちょっと予定が変わってラティーナが一緒にいることになっても問題はないのだが、遊んでくれないとなると今日の予定がなくなってしまう。そりゃあ、シャーとて、女子の無意味に長い買い物に振り回されるのは気が重くないわけではないのだが、遊んでもらえないとなると話は別。それぐらいは我慢する。
 せっかく、苦手な髪弄りにも耐えて曲がりなりにもかっこよくしてもらったというのに、ここで放り出されてたまるものか。
「荷物持ちも護衛もするじゃん。必要でしょ?」
 そう食い下がるシャーにリーフィが何か言いかけるが、その前にラティーナが割って入った。
「ダーメ、今日まわるお店はシャーがいると入りづらいの。服だのお化粧だの装飾品だのって興味ないでしょ? だからって、あんた待たせたまんまだと気がひけるし、それにね、たまには女の子だけで遊びたいの。男子禁制ってこと」
「ええっ、で、でも、普段、オレのことそんな男扱いしてないよね、二人とも」
 だんだん、自分で言いながら、やや情けなくなってきた。
「それはそれ、これはこれでしょ。もー、普段、あんたたち男どもの事情で散々リーフィのこと振り回してるんだから、たまには解放してあげなさいよ」
(え、いや、ぶっちゃけ、オレが振り回されてるんですケド……)
 ラティーナはそういって肩をすくめるが、シャーとしてはちょっと不満だ。リーフィは、そんな二人を見比べてくすりと笑う。
「うふふ、シャー、ごめんなさいね。今日はそんなわけで先約があるの。また遊びましょうね」
「え、あ、ああ、う、うん、そ、そう……」
 さらっとリーフィが冷たくそんなことをいって流すので、さすがに取り付く島がなくなってしまった。
「そ、それなら、そうだね。ま、また、遊んでください、はい」
 シャーは、結局二人の背中を見送ることしかできなかったのだった。


「何が女の友情だい。二人が仲良くなってくれたのは良かったことだけど、ここんところ、リーフィちゃんは休みの日にオレと遊んでくれてたのに、遊んでくれてたのに! 畜生、ラティーナちゃんの馬鹿ー!」
 シャーはあからさまに嫉妬の炎を燃え上がらせつつ、こぶしを握って経緯を話したものだったが、ジャッキールはすっかり冷めた表情になっていた。
 思ったよりも拗ねている理由がしょうもなかったので、頭痛がしてきそうだ。この男、日ごろから何気に嫉妬深いとは思っていたが、まさか同性の友人にまで嫉妬するとは。
「それは、貴様、リーフィさんも同性と遊ぶ方が気楽に決まっているだろう。しっかりしているが、あの年頃だ。同じ年頃の娘と遊びたいのも当然だろうが」
 ジャッキールが宥めにかかるが、シャーは首を振る。
「リーフィちゃんは、そういう性別超越した感じの女子だろ? 見かけによらず男っぽいというか、なんと言うか、一緒にいて女子を感じさせないというか。むしろ、オレとリーフィちゃんの間にあるのは、男の友情にも似た何かだと思っていたんだ!」
「それはリーフィさんに失礼だぞ」
 この男、リーフィに惚れていると自称しているわりに、彼女を女性扱いをしているのか? と、ジャッキールは根本的な疑問がわきあがってきたが、シャーの方は止まらない。
「とにかくっ、オレとリーフィちゃんの間にはそういう友情めいた何かが存在していると信じていたのに! よりによって、ぽっと出のラティーナちゃんに取られるとか! 結局、オレより女の子同士で遊ぶ方がいいとかっ!」
 シャーは、やや大げさに手を振ってから、どすんと椅子の上に改めて腰を下した。
「ふん、だから女なんてどうでもいいんだ。やっぱり、信用できるのは最後には男だけだよな!」
「な、なんだ貴様、そ、そんなことで俺の家に居座っているのか。迷惑だぞ」
 ジャッキールは呆れて頭を抱えながらため息をつく。
「頼むから帰ってくれ」
「いいじゃん。ダンナの家、超居心地いいんだもーん。なにココ、なんか安心する波動でもでてるわけ? この家の下に何かありがたいものでも、埋まってんじゃない?」
「よくわからんことを言ってないで、そんなに暇があるのなら、そろそろ貴様もマジメに働け」
「あぁん? ひどいこというねえ。オレにマジメに働けとか、死ねっていってるのと同義だよ? あら、ダンナ、そんなつめてぇーこというの? オレはダンナのことは漢として尊敬して信頼もしてるからこそ、今日はここを選んだのよ? そんなオレにそんなこというの? オレは夕方まで行くトコないっていうのにさー」
「わかったわかった」
 シャーがだんだん絡みだしたので、ジャッキールは、大きくため息をつく。
「夕方までいてもいいが、みだりに外に出るな。お前のような胡散臭い奴と付き合いがあるとか、ご近所に知られたくない」
「あらひどいわぁ。そんな胡散臭いことないじゃん?」
「一度鏡を良く見て……」
 そういいかけたとき、隣でドンドンと音がした。ジャッキールは即座に振り返り、ドン! と壁を叩く。
「うるさいぞ! 静かにしろ!」
 そう一喝すると隣の部屋は静かになった。
「あれ? ダンナの隣空き部屋でしょ? 誰か入ったの?」
 ま、まあな、となぜかジャッキールは、苦々しい顔になる。
「最近入ったのだ。ガサツな奴でうるさくてかなわん」
「へー、そうなんだ」
(こんな強面の奴の隣で物音立てられるとか、なかなか大物だね)
 シャーは、そんな素直な感想を持ちつつ、ふいに何か思い出したらしく指を弾いた。
「ガサツで思い出した。そーいや、蛇王さん、まだ王都にいるんだって?」
 ジャッキールは、どきりとしたように一瞬動揺する。
「さ、さあな、奴がいるといっていたのだから、いるんだろ」
「なんだい。そんな冷たい言い方しなくてもいいだろ? あんた達、お友達みたいなもんじゃん?」
「俺と奴は、宿敵同士だ。友人などもってのほかだ」
「へえ、そうなんだ。どうも、あんた達の関係、わかんないところがあるよなあ」
 シャーは肩をすくめつつ、にんまりと笑った。
「あ、そうだ。ちょーどいいや。そんじゃ、蛇王さんの話してよ?」
「何だと?」
 ジャッキールがあからさまに嫌な顔をする。
「そりゃー、因縁の相手なんだったら色々話もあるんでしょ? 戦った時の話とか、その辺の勝敗とかききたいなー」
「そんな大した話などない」
 ジャッキールは、顔を引きつらせて首を振る。
「そんなことないでしょ? なんかハダートから、一晩中殴り合ってた類の話とか聞いたんだけど……」
「ない。そんな話はなにもない! あったとしても、つまらん話だ」
「ご冗談! 喧嘩の話でつまんないコトはないじゃん。大体、あの蛇王さんとアンタの話だろ? すごく興味あるよね〜」
「う、……だから、そんな面白い話なんぞ……」
 シャーがそういって話を詰めようとすると、ジャッキールははっきりと焦った顔になっていたが、ふとわざとらしく何か思い出したふりをした。
「お、おっと! そうだ! そうだった! 俺は外に出る用事があるのだった!」
「ジャキジャキ、すげー棒読みだよ」
「う、うるさい。本当に用事があるのだ!」
 ジャッキールはしらけた目で彼を見るシャーを尻目に、ぎこちなく、しかし素早くがさがさと外出の準備をすると扉の前に立った。
「と、ということで、俺は出かける。しばらく留守をしていろ。おとなしくしているんだぞ」
 本当に出かけてしまうらしいジャッキールは、そういって扉を開ける。シャーは、片膝を抱えながらつまらなさそうに尋ねた。
「ちょっと、ダンナ、夕方までには帰ってくるんでしょうね?」
「当たり前だ! 夕方までいてもいいが、近所迷惑なことをするな」
「それならいーんだけどさ」
 シャーは、不服そうな顔をしつつため息をつくが、その間にジャッキールは、それではな、と言い残して逃げるように外に出て行ってしまった。シャーは、ぽつんと一人部屋に残されてしまう。
「ちぇーっ、なんだい。ダンナのケチ! せっかく面白い話が聞けると思ったのによ!」
 シャーは、口を尖らせて文句を言った。今日は、どうやらすべてがつまらない方向に進んでしまっているようだ。
「あーつまらねえつまらねえ」
 ごろんと横になってシャーは、元の通り本を広げてみた。せっかく面白い本だというのに、内容がどうにも頭に入ってこない。隣の部屋では、ジャッキールがいなくなったことを知ってか知らずか、物音が大きくなっている。どうやら隣人は本当にガサツな人間のようだ。とはいえ、シャーはその程度の物音を気にするほど繊細な人間ではない。大体、しばらくすれば静かになる。
(つまらねえから昼寝でもしようかな)
 そんなことを思いつつ、大あくびを一つしたところで不意に扉が叩かれた。
「おーい」
 ふと外から男の声がした。
「おーい、エーリッヒ! すまんが香辛料貸してくれ! 買い忘れた」
 何となくきき覚えがあるような声だ。その人物は、何度かぞんざいに扉を叩いている。その雑な感じ、噂の隣人ではないだろうか。となると、俄然興味がわいてきた。
 ジャッキールのような男相手にこんな親しげな声をかけるガサツな人物。それだけでも一見の価値はある。
(みだりに姿を現すなとかっていわれたけど、ま、ダンナが留守ってことぐらいは伝えてもいいだろ。大体、オレ、ダンナがいうほど胡散くさくねーしな)
 シャーは、そう思って起き上がった。


一覧 進む