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サギッタリウスの夜-19  
 
 夕暮れにかけて降り出した雨は、ことのほか強く、雷を伴うものだった。
 この屋敷は、堅固なつくりであり、音の響きも抑えられていたが、それでも、ざあざあと雨が屋根や壁をたたく音や、空に響き渡る轟音が聞こえていた。
 屋敷の主は、気が強く、時として残酷な女ではあったが、そんな彼女をしても、雷は苦手らしい。報告を受ける間、彼女は彼女らしくもなく、どこかそわそわしていた。
 彼女は、先ほど雨とともに入り込んできた秘密の来客と謁見していた。来客は、雨水を浴びた姿で彼女の前にひざまずいている。
「それで」
 前国王セジェシスの妃の一人であり、今も有力貴族の一人として絶大な影響力を持つ女。
 シャルル=ダ・フール王の即位をいまだ承認しておらず、まだ王妃の称号で呼ばれることを好むサッピアは、紅い唇を開いた。サッピア王妃は、一子リル・カーン王子の年齢を考えれば、もうそれなりの年齢ではあったが、こうして面と向かっていると、彼女は年齢を感じさせないほど美しい。
 すらりとした背の高い女で、細面。細い目を冷たく笑わせ、酷薄かつ妖艶な赤い唇。髪の毛は結っており、きらびやかな装飾で飾られている。恐ろしいまでの駆け引きを数知れず行ってきた彼女は、女狐と俗称されるだけの美しさも威圧感も備えていた。
「今のところ、あの男は我々に捜査の目を向けていないのだな」
「はい。下手人を探して王都を捜査しておるようですが、われわれを直接調べるつもりはないようです」
「なるほど。それでは、お前が心配していることとは何ぞ?」
「は、それは、あの逃亡した男のことであります」
「ああ。まだ始末できていないのか?」
 サッピアは柳眉をひそめた。
「ええ、都の外には出ていないでしょうが、われわれも身動きが取れない上、あの男、なかなか曲者です。しかし、もし奴がわれわれのことを吐いたら……」
「はは、それは心配することはなかろう」
 ふとため息をついて、サッピアは、細い眉を引きつらせて笑った。
「あのようなならずものの言葉では、妾(わらわ)を追い詰めることはできまい。妾には、確たる後ろ盾があるのだ。それに比べ、あの男は、将軍どものみ。今均衡を崩せば、再び内乱となることをわかっているはずだ。もっとはっきりした証拠でもなければ、そのような賭けにはでまい」
「は、それはごもっともです。しかし、相手はあのシャルル=ダ・フール。念には念を入れませんと……」
 と、男が答えたとき、背後の扉が開かれて声が続いた。
「母上、失礼いたします」
 そういって現れたのは、サッピアの一人息子であるリル・カーンだった。
 まだ、少年である王弟リル・カーンは、サッピア王妃の息子とは思えないほど、穏やかな顔つきをしており、実際に、人格も非常に穏やかだった。父のセジェシスは、そもそもが流れの戦士であったといわれており、本人は美男子ながら、なかなか威圧感のある軍人だったといわれているが、彼の息子たちはみな例外なく線が細い。唯一、自ら遠征に何度も赴き、幼少期から戦場で人生の大半を過ごしてきたシャルル=ダ・フールについては、その容貌の詳細を知らないものが多いものの、やはり長身痩躯であることは知られている。
 その王子の中でも、この女狐サッピアの息子であるにもかかわらず、リル・カーンの穏やかな人格は際立っていた。それがゆえに、サッピアも彼に王位を継がせるために必死になったのかもしれないが。
 リル・カーンは、そばでひざまずく男をみて、彼女を見上げた。
「ご来客中でしたか、失礼いたしました」
「おや、どうしたのだね?」
「い、いえ、激しい雷雨ですから、母上もさぞご不安だろうと思い、様子を見に来たのです」
「ほほほ、かわいらしいリル・カーン。お前は孝行息子だねえ」
 サッピア王妃は、くすりと笑う。しかし、リル=カーンは浮かない顔をしている。
「しかし、こんな日にご来客とは、急なご用事ですか? 何かお城であったのでしょうか?」
 と、ここで、リル・カーンが部屋に来た理由を、サッピアも悟ったらしい。気の優しい彼は、自分たちの宿敵であるシャルル=ダ・フールに対して、彼女が何か行動を起こしたのではないかと不安に思っているのだ。
「リル」
 サッピアは、首を振る。
「お前は、何も気にしないでよいといっているだろう? すべて母に任せておけばよいのだ」
「しかし、母上……! 私も、近頃、兄上が襲われたとも聞いております。もしや、また何かあったのではないかと」
 リル・カーンは、たまらずにそう口にした。
「まさか、母上……、その件に、母上が関わり合いに……」
「リル・カーン」
 静かにぎろりとサッピアは、彼をにらみつけた。その冷たいまなざしは、血縁である彼でも思わずぞっとしてしまうものだ。
「お前は何も知らないでよい。今は、来客中だ。下がれ」
 威圧感のある彼女の言葉に、リル・カーンは、ぐっと歯噛みをすると、失礼しました、と、母と来客に述べると、そっと扉から出て行った。
 サッピアはため息をつく。
「やれやれ、あの子は、まったく気の弱い。あの忌々しいシャルル=ダ・フールに恩義を感じるなど。アレの恐ろしさがわかっていないのか」
「殿下はお優しすぎるのです」
 男がそういうと、サッピアは、本当に、と呟いた。一人息子の彼を溺愛しているサッピアではあったが、彼の育成を乳母などの世話係に任せたのは間違いだったとも思っている。それがゆえに、彼は、あんな優しい少年になってしまった。優しさは、この世界で生きるのには武器にはならないのだ。むしろ、欠点である。
「まあよい、先ほどの話、お前の言うとおりにしよう。信用できぬ余所者は、消しておしまい」
 は、と、男は頭を下げた。
 ごろごろと、外では雷鳴がまだとどろいており、窓の外は真っ暗になっていた。サッピアは、眉根を少しひそめた。



 ドーン、と空気を震わせ、雷鳴がとどろいている。激しい雨と夕闇で視界が悪いが、稲光が閃くたびに、それに鉄が白く反射して光った。それを頼りに、彼らは、いまだに激しく打ち合っていた。
 本気ではないとはいえ、真剣での立ち合いだ。一瞬でも気を抜くと、お互いの生死に関わる。相手を殺さないように、しかし、ある程度は本気で――。そうやって心がけていたが、どうもゼダを相手にしていると、シャーのほうでも思わず本気になってしまいがちだ。もっとも、それは相手もそうなのだろうが。
 がっ、と正面から噛み合って鍔迫り合いになりそうになる。水で滑りそうになるのをこらえながら、シャーは、それを外して斜めに引き下がった。
「いくぜ!」
 ゼダがそう予告して、大きく動く。斜めに振り下ろしてきたそれは、雷光にまぎれて、ゼダの刀がやたらと歪んだ軌道で飛んでくるように見えた。
「ちッ!」
 一瞬、錯覚を起こしかけたシャーは、やや遅れてゼダの剣を受け流した。思わず冷や汗をかいたが、すぐに雨粒が押し流してしまう。ゼダも本気ではないから、あえて突いてこなかったが、先ほどのまま突きに入られたら、危なかった。
 シャーの反応でゼダもそれをわかっている。ははは、と笑い声が響いた。
「どうだ、オレもちょっとはマシになったろ!」
 ゼダの得意げな声が響く。シャーは、舌打ちした。
「馬鹿野郎、まぐれだよ、マグレ! ほらよ! 余裕ぶっこいてると、痛い目みるぞ!」
 シャーは、そういい、呼吸を整えつつ、改めて自分から仕掛けにいった。
 ゼダの言うことは本当で、確かに以前戦ったときよりも、ゼダは腕前が向上している。
 純粋に場数を踏んだこともあるのだろうが、シャーに刺激されたことに加え、ジャッキールの存在に触発されたことも大きいだろう。しかも、普段のジャッキールは、冷静に相手を分析しているので、何かと助言をくれることも多いのだ。基本に忠実な彼のこと、外したことを言わないので、お節介だとか、うざったいとか思いつつも、シャーも非常に参考にしている。きっと、そうしたことも影響しているのだろう。
 もっとも、それについては、シャー自身にしても同じことなので、ゼダとて表面的に余裕を見せているだけだったのだが。
 ざっと斜めに切り込んでやると、ゼダは受けずに身を翻してよけた。それを追撃しようと、シャーは、剣を持ち直して足を進めようとしたが。
「いてッ!」
 何かが顔にぶつかってきてシャーは素直に悲鳴を上げた、が、今のは、ゼダの攻撃ではなさそうだ。冷たい石つぶてみたいなものだったし、第一、空から落ちてきたように見えた。シャーが、何だ? と、怪訝に思う間もなく、不意に同じものが雨とともに大量に降り注いできて、地面でバラバラと音を立てた。
「い、いてて、何だ!」
 バラバラ頭から降り注ぐ何かを、シャーはつかんでみた。
「な、なんだ? これ、アラレか?」
 と、思った時、不意にばっと閃光が走った。
 どーんと大きな音を立て、背後で落雷した気配があった。びりびりと空気が震える。さすがのシャーも、反射的にそちらを振り返った。
 稲妻はもう見えなかったが、シャーの背中側だったので、多分、砂漠のどこかに落ちたのか? まだ雷雨はおさまる気配がなく、バリバリと雲間で音が鳴り、雹やアラレがバラバラと二人に降りかかる。
「お、おい、ここまでにしようぜ」
「そ、そだな」
 さすがにひるんだシャーがたまらずそう声をかけると、ゼダも同意見だったらしい。早速上着を拾い上げて、頭にかぶりながら駆け出した。
 近くに無人の古い掘っ立て小屋があったので、とりあえず二人はそこに避難した。どうやら、以前は隊商の休憩場所として使われていたようで石畳がしいてあった。が、今は、使う人もいないのか、放置されているようだ。雨漏りがしている。とはいえ、外で雨ざらしになるよりは良かった。
 まだ、雷の音が聞こえている。シャーは、びっしょりと濡れて重くなった髪の毛を絞りながら、うんざりとしていた。ゼダも頭を振って水気を切っているが、長髪のシャーのほうが水分を吸い取ってかなりうっとうしいのだ。目にかかる前髪を跳ね除けつつ、シャーはため息をついた。着衣もびしょぬれな上、泥をかぶっている。あまり服の持ち合わせのないシャーは、このあとの洗濯を考えただけでぞっとしてしまった。
「なんて天気だよ。お前、雨男すぎるんじゃないか? 前もそうだったよなあ」
「そんなことはねえよ。お前と立ち合うとこうなるんだ。雨男はテメエじゃないのか?」
「オレじゃねえよ。ったく、あーあ、参ったなあ」
 シャーは、げっそりして石畳の上に寝転がった。
 ゼダとの戦闘で、体温が上がってはいて、石畳の上はひんやりして気持ちが良かったものの、雨ざらしになったせいで、手や足は冷えていた。あまり長居するものでもなさそうだ。多分、しばらく寝転がっていると寒くなってしまう。
「雹がやむまでちょっと待つか」
 外はまだかなり荒れている。ゼダは、そういってため息をつくと、思い出したように煙管を取り出した。煙草を詰めながら、ふと、彼はシャーのほうを見た。
「オレだけ吸うのもなんだな。お前も一服やるか?」
「やらねえよ。そんなもん」
「ま、だろうな、前見たとき、咳き込んでたしな」
「知ってるなら聞くな」
 シャーは顔をしかめ、両腕を頭の上組む。起き上がる様子のない、ふてくされたようなシャーに目を向けつつ、ゼダは、なにやら考えていた。雷は少しずつ遠くなっているような気がするが、まだバリバリと空で恐ろしい音が渦巻いている。
「お前さ」
「あ?」
 不意に声をかけられて、シャーは態度悪く返事をする。
「いつもふらふらしてるけど、実家にはちゃんと親、いるのか?」
 シャーは、すぐには答えず、一拍おいてから、
「何でそんなことを聞く?」
 ゼダは、少し気を遣ったのか、少し苦笑いした。
「いや、悪い意味でいうんじゃねえんだが、お前、あんまり家庭運なさそうだから」
「どう考えても、悪い意味だろ。実家なんてねえよ。坊ちゃんのお前ほど恵まれちゃいねえ」
 シャーは、ぶっきらぼうにそう答えるが、別に気を悪くした様子ではなさそうだった。ゼダはうなずいた。
「別に、オレだって恵まれているわけじゃねえさ。親父のことは大嫌いだし、おふくろは……。なんとなくだけど、お前んとこも、似たようなもんかなとか、思ったんでさ」
 と、ゼダは、ふと火をつけるのやめて、視線を落とした。シャーは、直接返事をしなかった。
「オレのおふくろはよ、体は弱かったがきれいでやさしい女でさ。あんな扱いをされても、親父を愛していた」
 ゼダがふとそんな話を始めた。
「親父は金と女が好きな欲ばかりで、絵に描いたような屑みたいな男でよ。オレとおふくろのことも、正直どうでも良かったんだが、自分にどうやら男子が生まれないのを知って、あわてて引き取ったのさ。でも、あいつから与えてもらったのは金だけで、親らしいことは何一つしてもらってなかったよ。おまけに、おふくろは、親父の囲っていた女どもの嫉妬と悪意にさらされることになって、何かと病気がちになって、とうとう死んじまったものさ。それでも、おふくろは、死ぬ間際にオレに、誠実にあいつらに仕えるように言ったもんだ。オレはおふくろの言うとおり、あいつらを奉っていい子にしてたぜ。それが彼女の願いなら、その期待にはこたえなけりゃならねえだろう?」
 シャーが聞いているのか聞いていないのかはわからなかった。頭の上で両手を組んで寝転がっている彼は、取り立てて反応もしなかった。ゼダは、自嘲的に笑った。
「正妻どもは意地悪だったが、結局、親父には男児は生まれなかったから、オレには手を出せなかった。でも、ある日、オレは、おふくろは、正妻どもに毒を盛られて死んだんだってことを知ったのさ。それ以来、オレはいい子を演じるのはやめた。最初は、不良の真似事してるだけだったけど、いつの間にか本当の放蕩息子になっちまって、今のザマさ」
 ゼダは、煙管に火を入れながら、ふと真剣な顔になった。
「で、一人っきりになったオレを育ててくれたのは、ザフとザフの親父でな。護身用に剣術を教えてくれて、家族みたいに扱ってくれた。オレは、親父や正妻どもやその家族がどうなろうと、今だって正直知ったことじゃない。あいつらが何か下手やってどうなろうと、オレに被害が及ばなければどうだっていいさ。でも、ザフの親父とザフに何かあろうものなら、話は別。危害を加える奴がいたら、容赦しねえ」
 ゼダは、シャーのほうを向いた。
「オレは、別にテメエがどこの何様だろうが興味がねえし、どうでもいいことなんだぜ。事情を聞くなんざ、野暮なことはしねえ。だから、あそこで襲われたオッサンとお前がどういう関係かなんて追及するつもりはねえさ。ただ、オレはなんとなくお前の気持ちがわかる気がしてさあ」
 ゼダは、ようやく火がついた煙管をくわえずに、手にもったまま、煙が上に立ち昇るのを見上げている。
「どうしようもねえ時は、手ぇ貸してやるよ。だから、あんまり一人で抱えこむなよなあ」
「ケッ、馬鹿野郎」
 シャーは、いかにも不機嫌そうに吐き捨てるように言うと、がばりと起き上がった。
「テメエに心配されるとか冗談じゃねえ。テメエがそんなこと言いやがるから、こんな天気になっちまうんだ。でも、ま……」
 そんな悪態をつきつつ、シャーは、ひょいと煙管をくわえようとしていたゼダからそれを奪い取った。
「ああっ、テメエ、何しやがる!」
「せっかくだから、一服分もらっといてやらあ」
 抗議の声を上げるゼダを尻目に、シャーは、煙管をくわえて柱にもたれかかる。
「さすがいい葉使ってんな」
 煙をふーっと悠然と吐きながら、そういうシャーの姿はなかなか堂に入っていたが、普段とは別人のように悪い雰囲気になっていた。
「なんだ、煙草はやらねえんじゃないのかよ。じゃ、こないだ咳き込んでたのは、演技か?」
「今はめったにやらねえから、煙が変なトコにはいったんだ」
 半分演技だったような気もするが、シャーは口ではそう答えている。ゼダはあきれたような口調になっていた。
「お前も、大概悪いやつだよなあ」
「お前と一緒にするなよな。いっとくが、酒以外の悪いことはとうの昔にやめてるよ。今日は特別だ。ありがたく思え」
「ちっ、素直じゃねえな」
 ゼダは、肩をすくめた。
「お前こそ、勝負にこだわるなら、もっと摂生しろよな。こいつだって、吸いすぎると、いざって時に反応速度が落ちるぜ」
「へえ、そんなもんか?」
「ああ、オレはそうだったよ。不摂生した後に一暴れしたのはいいものの、危うく死にそうなほどボコられたもんよ。あんまり格好悪かったんで、酒以外は、まとめてやめてやったのさ」
 シャーは、煙草を吸い終わったのか、灰を落として、吸い口をぬぐうと煙管を投げ渡してきた。
「へぇ、お前がそれほどやられたトコなら、ぜひ見てみたかったぜ」
 ゼダは憎まれ口をたたいて苦笑した。雷が徐々に遠くなっている。いつの間にか雨は激しくなくなっていた。ゼダは、立ち上がって、外を覗き込んで、にやりとシャーに笑いかけた。
「それじゃ、オレは帰るわ。お前も適当に帰ってろよ。また明日な」
 シャーは、返事をしない。ゼダは、それも織り込み済みだったらしく、そのまま、雨の中を帰ろうとしたが、
「おい」
 と、ぶっきらぼうにシャーが呼び止めてきた。シャーは胡坐をかいたまま、ゼダを見上げていた。、
「どうやらお前に借りができたみてえだな。オレは、お前なんざに感謝はしねえが、借りは必ず返すぜ。覚えとけよ」
 どうもシャーも意地っ張りだ。素直ではない。ゼダは、思わず噴きだした。
「はは、礼の一言でいいのによ。ま、返してくれるってんなら、楽しみにしておくぜ」
 ゼダは、そういって小雨になった外へと走り出していく。シャーは、ぽつんとそこに残されたまま、難しい顔で腕を組んでいた。
「ったく、馬鹿野郎。ホント、気にいらね」
 ぼそりとシャーは、小声で吐き捨てた。
 



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