エルリーク暗殺指令-55
＊
　路地裏にて。
「あははっ！　あんたもたまにはいいこと言うじゃないの」
　メイシア＝ローゼマリーは、陽気になっていた。
　傭兵のフルドから休憩しようと誘われたメイシアは、警戒しながらではあったが、結局、フルドの差し出したお菓子を食べ、果実の飲料を飲みながら休んでいた。
　今日はそういえばちょっと疲れていたのだ。そんな体には甘いものが身に染みる。
　相変わらず、どこかで焦げ臭い煙が漂っている気配がしていたのだが、メイシアはそれにすっかり気づかなくなっていた。それすら無視できてしまうほど、今のメイシアはふわっとした気分になっている。メイシアにとって、煙はかつての不幸な記憶を思い出すものだ。それに対する反応は、比較的過敏であるはずだったのに。
（あれ、なんでこんなに気分いいんだっけ？）
　なんだか体が軽い感じだ。それにちょっと熱い気もする。
（これ、お酒じゃないわよね？）
　メイシアは、フルドの差し出してきた飲み物を改めてながめて、ちょっと舌でなめてみる。甘ったるい、が、酒特有の苦みは感じられない。
（うーん、甘いだけの飲み物みたいなんだけどなあ）
　さすがにまだ少女の年頃のメイシアだ。もちろん、本格的に飲酒をしたことはなかったけれど、前に強く勧められて、ちょっと試してみたときはそんなに酔っぱらったりしなかったのだ。
（大丈夫大丈夫！　お酒じゃないと思うけど、仮にそうだったとしても、すくなくとも、あたし、隊長よりお酒強いと思うし！　もし、何か盛られてても全然大丈夫だもん）
　そんな風に彼女は自負しつつ、ジャッキールのことを思い出していた。
　体の大きなジャッキールは、酒を飲めないわけではないのだが、ある程度の量を超えるとやたらと説教くさく、感情的になることが知られていた。彼は、いわゆるくだを巻いたり、急に泣き上戸になり、無駄に暑苦しくなって、ただの熱血漢な本性がにじみ出てしまう面倒くさい大人だったのである。
　メイシアは、ほかにも酔っぱらった人間の言動はよく見かけてきた。けれど、自分はそんな風にはなったことがない。だからジャッキールや他の男達より、きっと酒が強いと思う。
　ともあれ、メイシアは、酒と酔っ払いについてはちょっとした知識と自信があったのだ。
「いや、本当はさあ、俺だってエーリッヒのことは尊敬しているんだぜ」
　そんな陽気なメイシアに、フルドは笑いかける。
「アイツ、一見冷たいけど、実は面倒見良くていいやつだよなあ。性格いいだけじゃなくて、すげえ男前だし、強いしさあ。そりゃあ、メイシアちゃんが好きになるのわかるなあ」
「えへへっ、あんたもちゃんと見る目が養われてきたわねえ」
　メイシアはそう偉そうに言って楽しげにわらう。
　路上の木箱の上に座って、足をぶらぶらさせながら、メイシアは残りの飲み物を飲んだ。
「じゃあ、あんたが隊長に会わせてくれるっていうのも、まんざら嘘じゃないわけ？」
　メイシアとて、フルドのことを信用していたわけではないのだ。しかし、フルドがジャッキールのことをほめるものだから、信用してもよいのかと思い始めた。
　大きな目をしばたかせて、メイシアは尋ねる。
「こんなに変なところ、連れまわすもんだから、あたしを罠にはめる気なのかと思ったじゃない」
「ははは、ごめんよ。本当に迷っちゃったんだ」
　フルドはそう答えて困ったように笑う。
「なんか周りが変だし、俺もこの都は初めてだから、わかんなくなったのさ。何かあったのかね？」
「まあ、そうよねえ。変なんだよね。何があったのかなあ」
　メイシアは唸る。
「でも、この休憩が終わったら、ちゃんとエーリッヒに会えるように手筈を整える。仕切り直しするから、安心してくれよ」
「ふうん、それならいいわ。あたしは隊長に会えればそれでいいんだ。隊長の前では、あんたたちも悪事なんてできっこないものね」
　メイシアは陽気にそういって、笑い声をあげた。
　メイシアは上機嫌だった。
（なんだか楽しい！もうすぐ隊長に会えるからかな！）
　そんな風に思う。
　けれど、なんだか気持ちがふわふわしすぎな気がする。流石にメイシアも危険な環境で生き抜いてきた娘だった。警戒心がまるでないわけではない。普段なら、この状態にもっと注意していたはずだ。
　が。疲れと甘いものと、ジャッキールが近くにいる事実が、メイシアを惑わせている。
（なんだろう。歩きまわりすぎたかな。今日いろいろあって疲れてるんだ。ちょっと眠いみたいだし）
　そんな風に思いながら、メイシアは大あくびをすると、地面に足を付けた。足がふらっとしてしまうが、ふわふわの気持ちのメイシアは自分がふらついていることに気が付いていない。
「それじゃあ、もう休憩終わりにして行こう！　あたし、早く隊長に会いたいの！」
　メイシアはもう足を進めようとしている。行き先もわからないくせに、気持ちだけが先走っていた。
「ははは、せっかちだなあ」
　フルドは人のよさそうな愛想笑いを浮かべて、それからちょっと唇をゆがめる。
「いいよ。エーリッヒに会いに行こうね」
　その瞳の奥に。獣のような狡猾な光が走ったことを、メイシアは結局気づいていなかった。

＊

　ジャッキールとアイードの戦闘は、かなり激しくなってきていた。
　足場の悪い高台に逃げ込むアイードをジャッキールが追いかける。ジャッキールは足はさほど速くはないが、攻撃が速いのでそれを振り切って逃げるアイードはそれなりに苦労しているようだった。
「ちッ、なかなか粘るね、旦那」
　アイードはそう言い捨てつつ、ひときわ大きな一撃をかわしてすり抜けるようにしながら、階段を上っていく。
　もともと船上のような、とにかく不安定な足場で動くことに慣れているアイードだった。アイードがその廃墟を戦う場として選んだのは、自分の有利になる地形を選んだからである。
　しかし、ジャッキールは技術もあるが、力も強い。背の高い彼はそれを最大限に利用しており、多少不利な地形だろうと力ずくで強引に持っていくこともできるし、技術力でそのあたりを補ってくるのだった。
　そのあたり、流石に百戦錬磨の傭兵ジャッキールといえよう。
　普段はどこかしらゆったりとしたところもあり、戦闘中は逆に正気かどうか危うい部分もあるが、ここまで修羅場を潜り抜けて生還してきただけはあり、興奮状態にあってもジャッキールはその辺の調整ができる。
　だからこそ厄介なのだ。シャーやザハークをはじめ、実力者たちが彼をからかいながらも何かと一目置いており、彼の暴走を恐れているのはその辺の事情があるからだった。
「やっぱり、普通じゃないんだなあ、ジャッキールの旦那」
　アイードはしみじみとため息をつきながらつぶやいた。
「なめてたわけじゃあないけれど、やっぱりシャレにならないねえ」
「アイード殿のほうこそだ！　普段のアイード殿からはとても考えられんな！」
　ジャッキールは苦笑する。
「一体全体、アイード殿は、どこでこんな戦い方を覚えたのか俺は気にかかるが」
　普段は物静かなジャッキールの口数が増えるのは、彼の調子がイイ時である。つまり良い具合に興奮してきて戦闘態勢に入っているということだった。
「貴方の戦い方は、到底、ザファルバーンのような大国の名家出身の将軍の戦術とも思えんなあ」
　ジャッキールはちょっと笑った。
「ふふ、あの三白眼よりもさらに実戦的だ。まあいわば、喧嘩殺法に近いところもある。そんな野蛮な戦い方を教える教師は、本来、御曹司のアイード殿につくはずがないのだが？」
「そこは察してくれよな。でも、俺だってこんなことをするのは久しぶりなんだよ」
　苦笑しつつアイードはそういうと、さっとあたりに視線を走らせてジャッキールの隙をうかがった。
　足場の悪い場所にさしかかってから、ジャッキールは防戦寄りの行動をとり、壁に背を向けつつアイードの攻撃を誘っている。ジャッキールが放つ甘いスキのある攻撃は、確実にフェイントだ。それで反撃を誘っておいて、素早く切り返して重い一撃を振り下ろしてくる。
　いくらアイードとはいえ、それを不安定な体勢で受けると命取りなので、できるだけ有利な場所で攻撃させて状況を打開しようとしているところなのだった。
　だが、ジャッキールもさるもの。安易な誘いに乗ってこない。
　アイードが逃げながら戦っていても、決して深追いしすぎず、自分にとっても安全な場所を選んでいるようだ。
　それでいて、アイードが上の階に逃げ込もうとしているのを阻む程度に攻撃がある。簡単には逃がしてくれない。
（足場悪いとこに誘い込んだが、それはそれで考えて戦ってんだなあ。ただの戦闘バカじゃないんだよね、この旦那はよ）
　アイードは内心舌を巻く。
「でも、俺だってやられてばかりじゃダメなもんでな！」
　アイードはそういうと、さっと身をひるがえす。向かいの船のかがり火が、一瞬ジャッキールにまばゆく輝く。
　ジャッキールは強い光に弱い。特にリリエスに薬を盛られてから、元からあった症状がやや強くでている。
　一瞬順応できなかったのか、ジャッキールの動きが遅れたところで、アイードが素早く建物の上に駆け上がった。
　ちッ、とジャッキールが舌打ちする。
「上に逃げて船に戻るつもりか？」
　崩れた建物は先ほどシャーが船から伝って降りてきた場所だ。まだ帆柱《マスト》が突き刺さっているので容易に戻ることもできる。
「まさか！　アンタと戦うにはそりゃいい場所だけどさあ。俺が船に戻ろうとしたら、アンタはついてこられねえだろ！　さすがに逃げたって言われるのは癪なんでね！」
　アイードが嘲笑うように言った。
「ここは確かにドン詰まりだが、俺には都合がいいんだぜ。なにせ、レンガが崩れまくってて足場がめちゃ悪いからな。それに万一落ちても、この真下の水は深いんでねえ。大したけがもしなくて済む。逃げるのは嫌だが、どうしてもって時には船にも戻れる。俺はここからなら、如何様《いかよう》にも行動できるというわけさあ！」
　と、アイードは手を広げて改めて剣を構えた。
「さて、ちょうどいい舞台に来たところで、終幕だ！　俺は連戦で疲れてるんでね。そろそろ終わりにさせてもらうぜ、ジャッキールの旦那」
　そんなアイードを一瞥し、ジャッキールが無言で剣を握りなおして、ずいと足を進める。
　ざく、と足元の古びたレンガが音を立てる。崩れたレンガで凸凹になったその場所は、船からのかがり火に照らされているとはいえ足場が悪かった。アイードの言う通り、彼にとって都合のいい地形だ。
　ジャッキールは黙って一歩ずつじりりとにじり寄る。アイードはあえて自分から仕掛けない。
　と、ざっといきなりジャッキールが歩を詰めた。
　ジャッキールは、さほど動きは素早くないが、こうした瞬間的な動作が非常に速い。重たい剣をざっと振り下ろす。アイードはそれをよけきるが、その瞬間、ジャッキールは手首を返して剣を反転させた。
「ちッ！」
　その軌道は何かをひっかけるようなクセのある弧を描く。それはジャッキールの手癖であったが、それだけにかわしづらいものだった。
「ッ！」
　紙一重でギリギリかわしたアイードの赤い髪の毛の先が、いくらか切れて飛んでいく。
「さすがだな、アイード殿！」
　ジャッキールが歓喜の笑みを浮かべて追撃する。アイードはそれをはじき返した。
「ははっ、これをかわせるとはな！　期待以上だ！」
「アンタこそ、肝が冷えたぜ！　ったく、ひでえよな自分だけ楽しくなっちまってさあ！」
　アイードはそのスキを縫うようにして突き上げるが、ジャッキールがそれを剣の柄で止めた。
「本当、アンタもひでえやつだな。俺みたいな小物にはちったあ手加減しろよ」
「だから先に宣言していただろう？　俺は、手加減ができないと！」
　ジャッキールは徐々に調子が上がってきているらしく、その表情がいささか冷静さを欠いているように見えた。
「だが、アイード殿なら構わんだろう？　アイード殿に手加減する必要はないように思えるからなあ！」
　ジャッキールが楽しそうに笑う。アイードは肩をすくめた。
「やれやれ、本当、困ったオッサンだね、アンタ」
　アイードはため息をつきつつ、
「まあいいや。しょうがねえからもう少し付き合ってやるよ！」
　アイードはそう答えると、剣を握りなおして斜めに切り上げる。ジャッキールはそれを力任せにはじき返し、素早く振り下ろす。地面すれすれまでおろしてから切り上げると、砂埃が暗闇の中に舞い散った。
　それを隠れ蓑にするように、アイードが建物の崩れたレンガをかけのぼる。
「逃がすか！」
　ジャッキールはそう叫び、アイードの立っていた踊り場に駆け上がる。そして、階上のアイードをにらみつけたところで、ジャッキールは何かを感じたらしかった。
　不意に彼は弾かれたように振り返った。
　何を感じたのか。
　アイードより先に、何かの音を聞いたのか。
　彼が振り返った瞬間だった。
　アイードの耳にもはっきりと風を引き裂く鋭い音が聞こえてきた。
　だっ、とジャッキールの胸に矢が突き刺さる。
「！」
　アイードが身を乗り出したところで、ジャッキールが矢の衝撃で後ずさる。かかとのあたりにあった崩れたレンガが、ジャッキールの足をもつれさせた。
　緩やかに弧を描き、彼の体がゆっくりと空中に投げ出される。
　そして船の篝火の当たらぬ闇の中に飲み込まれ、暗い水の中に落ちていく。
　ざばあっという音。船のかがり火でも見通せない闇の中に水しぶきが上がった。
「！」
　アイードははっとして建物の下の川面をのぞいた。水は、真っ黒なかたまりのようだった。波紋を広げ泡が立ち上っているようだったが、ほとんど視界が効かない。
　我に返ったようにアイードは、今度は矢の飛んできた方角をみる。
　その建物とは対角線上にあたる建物の屋上。
　そこにたたずんでいたのは、弓を構えたザハークだった。


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