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エルリーク暗殺指令-31


 いつのまにか、窓から茜が差し込み始めていた。夕暮れの気配が辺りに急に漂い始めている。
 シャーは、ジャッキールから提示された言葉を一瞬理解しかねていた。その部屋で、彼と相対して茶を飲みながら話している。それが急に現実感がなくなったような気すらしていた。
「俺では、不足と思うかな?」
 黙っていると、ジャッキールが苦笑した。
「い、いやぁ、そういうわけじゃないんだけど」
 思えば、彼とは仕事の話をしたことがない。とくにジャッキールの側の仕事に関することはだ。
 シャーとしては、仕事の口をきくくらいのことは、実はできなくもなかったのだが、それをするのは彼が嫌がるとも思っていたし、今まで協力してもらっていたのは、私的なお願い事でもあった。
 いつか敵対するかもしれない、そんな気持ちがなかったとは嘘になる。しかしそれ以上に、彼が自分の部下になるというのは想像ができなかった。
「いや、その、アンタ、宮仕えとか嫌いなんでしょ? 主君持たないってきいてるし……」
「ふふ、それを一時的に曲げてやるという話だ」
 ジャッキールは薄く笑う。
「といっても、まぁ、お前の完全な部下というのも、面倒だから、客分に毛が生えたようなものかな。流石にお前の部下になるというのも、ちょっと癪だから……」
 最初は冗談なのかと思ったが、どうも冗談というつもりでもないらしい。
「それって、本気?」
「ここにきて、こんなタチの悪い冗談はさすがに言わん」
 苦笑しつつ、ジャッキールは足を組みなおす。
「お前としては、俺の能力にも疑問はあるかもしれないがな、情報料だけでも安いものだぞ」
 それはもっともな話だった。確かに自分の味方に、彼ほどラゲイラ卿のことを知る人物はいない。
「お前はラゲイラ卿を止めたいのだといった。それなら、俺としても願ったりなのだ。俺は、彼にこれ以上間違いを犯してほしくない。しかし、お前と彼とが殺し合いになることは避けたい。お前がことが起こる前に事態をどうにかしたいというのなら、俺がお前に協力しない手はないではないか」
「それはそうだよね。うん」
 シャーは、かみしめるようにうなずきつつ、
「そりゃあ、オレはアンタが協力してくれるのは素直に嬉しい。でも、それなら本当にアレだよ。オレはエルリークとしてアンタを採用するよ?」
 確認するようにシャーは尋ねた。
 シャーは懐に手を入れて、隠してある袋から指輪を取り出す。黄金の指輪は総司令の印章を兼ね、複雑な細工がなされていた。
「総司令職って、今は形だけだけど、本当に就任してくれるっていうなら、オレは色々手伝ってもらってしまうから。役割は七部将との調整ってことだけど、ラゲイラ卿に対抗するなら、主軸になってもらうかもしれない。七部将の連中は気のいい人が多いけど、それでも、色々気を遣うことだよ。そんなこと頼んでも大丈夫かな?」
「もし、お前が雇っても良いというのなら力を貸す。それだけの話だ」
 ジャッキールはためらいなくそういう。
「俺も大変な仕事とは理解しているつもりだ。ただ、期間契約だがな。ラゲイラ卿の計画を阻止する、その期間だけの話だ。それ以上となると、俺では少し肩の荷が重いだろう。……だが、あくまで彼を相手にするのなら、俺でも十分使えると思うぞ」
「本気なんだな」
 シャーは念を押すようにつぶやいたが、ジャッキールは表情を変えない。シャーは思わず苦笑して、
「でも、アンタ、さっき、お給料はオレの小遣いじゃ無理だっていってたじゃん。高いんだろ?」
「そのあたりは、まあ、交渉次第だな」
 ジャッキールはやや悪戯っぽくそう言いつつ、
「ああ、しかし、金銭的な要求は小遣い程度で勘弁してやるが、それ以外の部分で俺の要求を飲んでほしいことがある」それさえできれば、報酬のことは二の次で構わん
「なにさ。宮廷料理人に、ダンナ好みのお菓子でも作ってほしいわけ」
「それもよい話だが、……しかし、これはずいぶんと難しい要望でな。だが、それを飲んでくれなければ、俺はお前に仕えるわけにはいかんのだ」
「なにさ、随分勿体つけるんだね」
 シャーはキョトンとしつつ、
「いいよ。金銭的なこととかは、確かにオレの一存ではキッツイところはあるけど。本気さえ出せば、ちょっとだけなら領地を与えることだって、官位与えることだって、できないことはないんだし。いいよ、何でもいってくれれば」
「そうか。では……」
 と、ジャッキールは薄く笑う。
「俺がお前に仕えるとして……」
 ジャッキールは例のごとく、ゆったりとした口調で尋ねる。
「もし俺が死んだら、俺の葬式は盛大に上げてくれるかな?」
「何言ってんだ!」
 その意味を理解して、シャーは思わず立ちあがった。
「何、縁起でもないこといってんだよ!」
「あ、いや、待て」
 いきりたつシャーに、ジャッキールはやや慌てていた。
「い、今のは軽い冗談だ。そ、そう、本気にするな」
「アンタが言うと冗談に聞こえねえってーの! タチの悪い冗談は言わねえとかいいながら、何てコト言ってんだ!」
「いや、その、そんなに怒ると思わずだな。す、すまなかった……」
 ジャッキールがシャーを宥めつつ、素直にそう謝る。
 謝られ、シャーはとりあえずどっかりと座ったが、どうやらまだ少し怒っているらしい。
 シャーとしては当然の感情ではある。この前からの一件で、ジャッキールには相当心配させられた。もとから、どこか不安定なところのある彼のことだ。冗談でも許せないことだった。
「今度そんなこと言ったら、マジで殴るからな」
「いや、そ、それはすまなかった。いやまあ、その、冗談ではあったのだが、一応なんというか、今から言う条件とも関連があって……」
 ジャッキールは何やら言い訳めいたことを言い出していた。
「しかし、この条件は本当に難しい。だから、お前にも考えてもらいたい。もし、それができないのなら、多分俺を雇っても何の意味もないからな」
「だから何だよ」
 シャーがぶっきらぼうに尋ねると、ジャッキールはふと表情を整えていった。
「それはただ一つ。何があっても、俺を最後の最後まで信じてくれることだ」
 思わぬ答えに、ふてくされていたシャーは顔を上げる。
「信じること?」
「そうだ」
「オレは、アンタのことは信用しているつもりだよ」
 シャーは思わずそう言った。
「そうじゃなきゃ、こんな話をアンタにするはずもないじゃないか」
「お前が、俺には身に余るほどの信頼を寄せてくれていることはわかっている」
 ジャッキールはシャーの言葉をやんわりと遮る。
「しかし、これはまたそれとは別の話でな……」
 ジャッキールは、やや苦く自嘲的に笑う。
「先程も言っただろう。俺は、最後まで信じてもらったことがない。今までそのせいで失敗を重ねてきた。もちろん、信じてもらえないのには、俺にも原因はあるだろう。俺の不徳の致す故としか言いようがない。だが、信じてくれさえすれば、どんな難しい任務でも成功させられた。それは今でも同じなのだ。だから、俺が、お前の期待に応えるためには、お前にも協力してほしい。俺は必ずやることはやる。何があっても俺の事を最後まで信じて欲しい」
 先ほどの、とジャッキールはばつが悪そうに付け加える。
「悪い冗談もそういうことだ。お前は最後まで変わらずに俺の面倒を見られるのかと、そういうことなのだ。一言断っておくと、実際には、俺は死なんさ。死んでは任務が達成できないだろう。だから、捨て身のつもりはない。それははっきり言っておく。その上で、それを含めて俺の言葉を信じてほしい。それだけなのだ」
 ジャッキールは軽く指を組む。
「しかし、人を信じるということはとても難しいことだ。俺のことをもっとも理解してくれていたはずのラゲイラ卿ですら、俺を最後まで信じてはくれなかった。それゆえに失敗した。今回の仕事は、とても難しい仕事だろう。それなら、お前が絶対的に俺を信じてくれることが必要なのだ。そうでなければ、必ず作戦は失敗する」
 ジャッキールは顔をあげた。
「俺が、”やる”といったことは必ずやり遂げるのだと、何があっても俺を信じること。報酬は要らん。官位や領地ももってのほか、金も要らん。ただ、俺が望むことはそれだけだ」
 そういって、ジャッキールは試すように微笑む。
 シャーはだまって彼を見ていた。少しあっけにとられつつも、その意味を理解しはじめていた。その彼に畳みかけるようにジャッキールは告げる。
「俺を無条件にただ信じる。それは、俺の今までの”主君”は誰も成し遂げられなかったことだが……」
 赤い色の光線が部屋にさしこみ、包帯を巻いているジャッキールの左の瞳がちらりと炎がはいったようにきらめく。それは彼のいつもの狂気の色と似て非なるものだ。
「さて、お前にはできるかな?」
 シャーはまだ黙っている。その手の中には黄金に輝く、エルリーク総司令の為の指輪が握られていた。

 *

「我がザファルバーンは、カリシャ朝の頃から強大な勢力を保ってきた」
 ジェアバード=ジートリューは、すっかり外向けのような話し方になっていた。
 まるで演説か講義でもしているかのようだ。
「乱世になってからは、多少、離脱した地域もあるのだが、それでも大きなものだ。特に先王セジェシス陛下の御世では、先の宰相ハビアス様の意向もあり、領土拡張政策がとられたのはお前も知っての通りだろう。しかし、ハビアス様は、陸上については積極的だったが、水上においては専門外だったのか、さほど積極的な展開はなされなかった」
 ハダート=サダーシュは、頬杖をついて講師のような口調で話す親友の話を聞いていた。
「南側は大外洋に通じ、北側は太内海に通じている。大外洋は荒れた海で航行が難しい一面がある為距離のある貿易には向かないが、それに比べて太内海は比較的穏やかであり、北部の諸国との交易にも使われてきた。特にこの西側は太内海の南岸として交易には非常に重要な要所で、貿易港として栄えた経緯がある」
 ジェアバード=ジートリューは、地図を広げてそんな風に説明する。
「しかし、そのような場所であるので、海賊に悩まされること多かった。セジェシス陛下も海戦は専門外だったので、ファザナー家、取り立ててアイードの前の当主である先代の妻である私の姉が仕切っていた。積極的な戦術が行われなかったのは、そうした家の事情もあってのことであろう」
「ああ、あの気が強くて派手な、お前とは髪の毛以外似てないおねえさんか。でも、結構よくやってただろ。アイードの奴が今でも”若旦那”とか”お坊ちゃん”とか呼ばれてるのは、あのねーさんの”奥様”っていう印象が強すぎるせいじゃないか」
 ハダートが口を挟むと、ジェアバードは苦くうなずく。
「それは辛いところではあるのだが……。まあ、姉上の話は今は少し忘れておいてほしい」
 どうやら姉については、ジェアバードも苦手らしく、珍しくそんなことを言う。
「それはさておき。太内海で古来から栄えた都市としては、チェナンザやアーヴェといったところが有名だ。チェナンザについてはザファルバーンの勢力範囲内だが、アーヴェは海賊の本拠地になった経緯もあり、現在も我々に帰順していない」
「あれ? アーヴェって、昔、一度、帰順してたんじゃなかったっけ。総督府あったことがあるよな?」
 ハダートに尋ねられ、ジェアバードは頷く。
「お前の言う通り、十年程前まではアーヴェ総督が帰順していたことはあるのだ。その男も海賊の出でな。ヴァレアースとか”北風”という名で知られていた」
「ヴァレアースの名前は聞いたことはあるぜ。なんでも、凍てつく北の大地からきた金髪の男だとか。まあ、俺も元々はその辺りの出らしいんだけどさ」
 ハダートは元々は奴隷のような身分だったらしい。自分の出自ははっきり覚えていないらしいが、どこかから攫われてきたのだろうとは推測がついている。髪の色からおそらく極北の国から攫われてきたのだろうとは言われていた。
 そもそもはジートリュー一族の先祖も、はるか北から流れてきたとも言われている。様々な事情から、ザファルバーンは多様な民族があつまりやすく、人種のるつぼ状態になっていた。
 その為、別に海賊であるヴァレアースの出自についてもさほどの驚きはないものだ。
「ヴァレアースの一派は元々は、極北の凍てつく大地からやってきた者達だと言われている。更にヴァレアース自身は、遠い大陸の生まれだという話すらあるが、それはよくわからん。ともあれ、生活の糧を得るために南下して略奪行為に及んでいた一族が、”北風”と呼ばれた男を指導者として力を強めたのが始まりだという。ヴァレアースは、またたくまに太内海の海賊をまとめあげて、太内海の北岸からアーヴェまで支配した」
「やり手の男だったって噂はなんか聞いてるぜ」
「うむ。しかし、太内海の南側まで支配を広げたことで、南側を支配していた男と対立することになってしまった。当時、アーヴェより東のザファルバーン側の海岸には、私掠船団をまとめ上げる男がいてな。私掠船とはいうものの、気に入らない敵対した海賊船や関連の商船をつぶしていたようなところがあってだな」
「ほとんど海賊だろ、それ」
 ハダートは呆れたように言った。
「いや、海賊というわけではないのだ。彼らは一応法律の範囲内でだな……」
「でも、まー似たようなもんだろ」
 ハダートはそう言い切りつつ、
「とはいえ、ファザナー家も元々はそんな感じだって話だったな。アーヴェの海賊は奴隷狩りもしてたらしいから、海辺に住んでる人間にとっちゃ、ありがたい存在だったってことか」
「もともとは自警団のようなものだったのだが、海賊の被害が大きいもので、より勢力が大きくなっていてな。ともあれ、その男がそのあたりを指揮していた。ザファルバーンにも帰順している為、我々にとっては味方ではあった」
 ジェアバードはため息まじりに話す。
「南下し略奪を繰り返す海賊と、南方で彼らに対抗する男。当然、対立は避けられんことだった。その男は、片目のアステイルという男で、北風に対して”南風”のアステイル、または泣く子も黙るアステイルと呼ばれた男だ」
「泣く子も黙るって……、なんだ、正義の味方っぽい立場にしては物騒だな」
 ハダートが思わず突っ込む。
「普段は温厚な人物だったらしいのだが、キレると怖いという意味だったとか聞いたぞ。キレると手が早かったという話だが、そこは私もよくしらん」
 ジェアバードはハダートの突っ込みに律儀に対応し、話を戻した。
「勢力を強める北風に対して、南風は即座に対応し、両者は激しく争った。……のだが、ここでちょっとした異変が起きる」
 ジェアバードは一息置いて、
「北風のヴァレアースは急激に勢力を強めたこともあり、妬みも恨みも買っていた。南風のアステイルとの抗争で足元がおろそかになり、裏切られそうになったのだ。しかし、戦闘を通じて奇妙な友情が湧いたとでもいうのか、そこでアステイルが助けに入り、ヴァレアースは事なきを得た。以降、彼等は和解し、親友となった。アステイルの強い勧めもあり、ヴァレアースはザファルバーンに帰順。晴れてアーヴェ総督となるわけだ。その後、南風のアステイルは彼自身の事情で引退した。そして、その十数年後には、北風のヴァレアースは新しく”南風”ナトゥスと呼ばれたラーゲンなる海賊に追われて、アーヴェが再び海賊の支配する街になるのだが、アステイルの説得のおかげで束の間、平穏な時期があったのは間違いない」
「なるほどね。そういう経緯で、総督府があったわけか。しかし、”北風”だの”南風”だの、その理論で行くと”東風”と”西風”もいそうだな」
「よいところに気が付いたな。北風と南風は和解した時にお互いに子供が生まれたら、東風と西風の名前をつけようなどと約束したらしいぞ」
「へえ、またあっつい友情だな、それは」
 ハダートは呆れたようにため息をつく。
「その暑苦しい話でじんわりわかってきたんだが、その南風のアステイルって……」
 そう尋ねた親友の反応で、ハダートはもう一度ため息をつく。
「なるほど、長い話になるんだな、これ」
「そういうことだ。長い因縁の話なのだ、これは」
 ジェアバードも同じくため息をつく。
 少し茶でも飲むか、そんなことを考えて、ハダートは部屋の外にいる使用人を呼びつけると、二人の茶を用意するように言いおいたのだった。

 *

 たなびく雲が朱色に染まっている。
 それを目指すように走っていたアイードは、運河をのぞむ橋のところでようやく足を止めた。向こうに小舟が見えるだけで、人気のない場所だ。
 アイードから少し遅れてゼダが続く。
「ここまで来れば追いかけてこないだろ」
 そう言いつつ、アイードは欄干に背中をもたれさせ、やれやれとため息をつく。
「はー、やれやれ、もう俺もオッサンだからなあ。走らせるモンじゃねえって」
 そんなことを言いながらも、息が荒いのはそれでも少しの間で、ふうと一息つくとすぐさま息を整える。それはゼダよりも早いのだ。
(どこがだよ、こいつ)
 まだ肩で息をしながら、ゼダは、伊達男さながらに帽子をかぶりなおす彼を軽くにらんだ。
 アイードはその視線を流しながら、
「まー、この貸しはいずれ出世払いでいただくとして……。それは、ともあれ、ネズミのボーヤ、何か俺に言いたそうだな」
 アイードは平然とそんなことをいう。
「あんな大勢いる場所じゃいやだけど、ここなら、ちょっとだけなら話をきいてやってもいいぜ?」
「アンタ、アイード=ファザナーだろ? 七部将の一人の、ファザナー家の当主」
 そういわれて、ゼダは迷いなく単刀直入に言った。
「ファザナーの若旦那って呼ばれてたし、その赤い髪だって……」
「その情報、必要?」
 ふと言葉を遮るように、アイードが小首をかしげて尋ねた。
「必要……っていうか、現に、アンタはこの界隈でそう呼ばれて……」
「いやさ、俺が尋ねたのはな、お前さんにとってその情報が必要かどうかってコトさ」
 アイードは例によってやんわりと諭すような口調で言う。
「例えば、お前さん、俺が本当にファザナーの若旦那だったとしたら、どうするつもりなんだ? 将軍閣下ーって持ちあげてくれるのかよ」
「そ、それは別に……」
 もごもごと答えると、にっとアイードは笑う。
「それじゃ、別にお前にその情報必要じゃないってことだな。お前さん、俺が若旦那だろうが、街をぶらつく無職の男だろうが、別にどっちでもイイってことなんだろう? まー、お前さんの周囲の人間見るとそういうヒトばっかりだから。あの三白眼の兄ちゃんも、ジャキさんも、蛇王さんも、リーフィちゃんですら、根掘り葉掘り調べ上げりゃ、いろんな事情がわいて出てくる奴らばかりだからな。気にはなるだろうけど、必要以上に気にするような奴はつきあえねえよ」
 アイードはそういって首を軽くかしげる。
「ま、でも、俺に関してはどっちでもいいぜ。俺は否定も肯定もしやしねえし、何を隠しているつもりもねえし。お前の好きなように呼べばいいさ。周囲の連中も呼びたいように呼んでるってだけで、俺が本当に若旦那かどうかなんて、大して問題じゃないだろうからな。奴等、俺のことは特に尊敬もしてねえから。ただのあだ名だよ、あんなもん」
「なんだよ、それ。それって結局……」
 とゼダは文句を言いかけたところで、続きを飲み込む。どうも調子が狂う。普段は簡単にからかえるような気弱なアイードだが、先ほどの立ち回りを見せられた後で、ゼダも普段通りに接することができない。
「でも、ずいぶんと余裕なんだな」
「何が?」
「もめ事に慣れてるみたいだったから。手際もいいし、腕もよかった。暴力が嫌いって言ってたわりにな」
 恨めしげにそういうと、アイードは苦笑した。
「暴力ももめ事も嫌いなのは本当さ。ただ、あいにくと、スキあらば真剣持ったままじゃれついてくる、豹みたいな副官も傍にいるんでね。こちとら毎日命懸けなんだよ。命を守る為にはそれなりに強くねえとな。で、ところで……」
 アイードは帽子のつばに手をかけつつ、
「お前さん、ウェイアード=カドゥサだろ。カドゥサのお坊ちゃん」
 むっとゼダが表情を変える。
「なんでソレ知ってんだよ」
「ははー、ボーヤが言う通りの男なら、俺はココのヌシだからそれぐらい知ってる」
 アイードは意地悪く笑いつつ、、
「って、今のはさっきの仕返しなわけだけど。実際は、仕事の関係でカドゥサとは多少の付き合いがあるからな。色々な情報組み合わせば、あれこれわかるってもんさあ。しかし、なんだ、そんな嫌な顔して……」
「カドゥサの家の人間だなんて、名乗りたくもねえんだよ!」
 ゼダは不満げに吐き捨てる。アイードは小首をかしげる。
「なんでだよ。そりゃあ、カドゥサの旦那はやり口が強引なところもあったけど、一代で富豪に上り詰めた凄い商人だぞ。悪い評判はあるけど、本当はそれだけじゃないって、お前さんなら知ってるはずだろ?」
「あんな家に生まれたくて生まれたわけじゃねえよ」
 ゼダは鼻を鳴らす。
「あんな奴と血がつながってると思っただけで、反吐が出そうになるぜ」
 アイードはゼダのその態度を観察していたが、
「へぇ、なるほどな。お前さんも三白眼の坊主と同じで、色々フクザツそうだねえ」
 アイードはそういってため息をつきつつ、
「まあ、お前さん達の気持ちもわからなくないけどな。俺もどっちかってえと、”そっち側”の人間だったから……。特に餓鬼のころはな」
 アイードは目を伏せて笑う。
「だから、なんてえか、三白眼のボーヤとかお前を見てると、昔のことを思い出しちまって、どうもむずがゆくなるんだよな」
 夕日を背景にして、風でゆらめくアイードの髪が燃え上がるように見える。
「アイードさんは……」
 それを見ながら、ゼダはふと口にしていた。
「どうして否定しなかったんだ?」
「否定? はて何を?」
「すっとぼけるなよ。さっきの、ダルドロスのことさ!」
 ゼダはきっと顔を上げる。
「アンタなら知ってた筈なのに、アイツが偽者だってこと、わかってた筈だ!」
 ゼダはふと声を落とす。
「アンタの別荘で見たぜ。古い衣装箱に入っていたもの。ベルトのバックルに、ダルドロスが持っていたものと同じ意匠がしてあった。だから知ってた筈なんだ!」
「あーあ、何だって? アレを開けちまったのかよ」
 アイードは思わず苦笑する。
「厳重に鍵かけてたのになぁ。まー、大方そんなことすんのは、どうせあの三白眼のボーヤだろうけど。相変わらず、隠し事暴くのがうまいんだからさ。しかし、厄介なヤツに随分と面倒なモノ見られたもんさ」
 アイードはやれやれとため息をつきつつ、
「ま、面識ぐらいはあったってコトにしておいてくれてもいいけどな。だけど、例え、知ってたとしても、あんなトコで否定しても、どうやって証明するのさ。今やあの男は存在しねえ男だからな。存在しない男が本物か偽物かなんて、説明しても無理な話だ。なにせ、あっちには当時の部下もいるんだろう?」
「そこは……」
 といいかけたゼダにアイードは軽く右手をあげて制する。
「お前さんは本物じゃないってわかってるんだろう。だったら、それだけでいいじゃねえか」
「いいわけないだろ! ダルドロスは……」
「深入りしねえほうが、いいんだよ。そういうのはさ」
 他人事のような言いっぷりに、ゼダはいっそう責めるような口調になる。
「だって、ダルドロスのことは、アンタが信じろっていったじゃないか! この間、会ったときに!」
「だったら、信じてやればいいだけじゃねえか」
 ぐっとゼダが詰まる。  
「へへへ、でも、それが難しいんだよなあ。人を信じるっていうのは、本当に難しいことだ。それは、”そいつを信じている自分”を信じるってことだからさ。自分を信じるってのは、それはそれですごく難しいことなんだぜ、本当は」
 ゼダがうつむくのと対照的に、アイードは空の方を仰いでいた。
「大人になるってのは嫌なもんで、ガキの頃のキラキラした宝石だと思っていたものが、実は泥だらけの無価値な石ころだってわかっちまう。綺麗な思い出なら、思い出のまましまっておく方がいいのさ。魔法がかかっているなら、解かない方がいいことだってある」
「無責任だろ、そんなこと」
 ゼダが静かに口にする。
「信じればいいっていうぐらいなら、石ころが宝石だって証明してくれたっていいじゃねえか」
「それとこれとは違う話だろ。少なくとも、信じていさえすれば、これ以上幻滅しなくて済む。それは駄目なのかい?」
 なだめるようにそう言うが、ゼダは黙って彼を睨んでいた。
 アイードはため息を一つ。しばらく彼はだまって空を仰いでいたが、ふと顔を戻す。
「それじゃあ、お前には、俺はどう見えるかな?」
 ふと、少しだけ口調を変えて、彼はそう尋ねた。
「どう、って?」
 ゼダが思わずきょとんとすると、アイードは苦笑する。
「いやさあ、優柔不断で頼りなくて冴えないって評判の俺のことさ。そのくせ顔に似合わない傷が走ってるって、お前、どうせ河岸を歩いてたなら散々聞いただろう? どうせ、あの坊ちゃんなら、喧嘩もできそうにないから、くだらねえことでドジして傷が残ったんじゃねえかとかさあ」
「ま、まあ、そういう話は聞いたけど。顔の傷は男の勲章だって、他の連中も言ってたさ。たとえどんな理由でも、アンタが堂々と歩いているんだから、それはいいことなんだって……」
「んー、そうだな。実際、俺、今は老け顔だけど、本当は童顔なんでねえ。傷と髭がなければ舐められるんだよな。だから、すごく便利だよ。例え、不注意でついた傷でもな」
「不注意でついた傷、確かにみんなそう言ってた。剣術の練習での事故だって。だけど、オレは」
 ゼダはちょっとためらってから、
「アイードさんは、別の理由でその傷があるんだろう?」
「はっはっは。まあ、そう思うだろうな。お前の立場なら」
 アイードは笑い飛ばしつつ、唇を歪めた。
「なぁ、ネズミのボーヤ。顔の傷は男の勲章って、そう言った事は嘘はないんだぜ。これは、アイードって男にとってはとても有用なもんさ。自分を戒めてもくれるし、それで俺は穏やかな生活を送れてるんだ。ハクもつくし、いいことずくめだよ」
 アイードは、そう言って傷を人差し指でなぞる。
「俺はコイツに感謝してるんだ。そうでないと、俺はどんな人間になってたかしれない」
 でも、とアイードは表情を変えずにいう。
「でもな、それは今の立場も責任もあるアイードには有益だが、それが”俺”って男に対してすべて有益だったかっていうとそうじゃあねえのよ。特に”男としての俺”にとってな」
 ふとアイードの周囲の空気が剣呑な気配を醸し出していた。
「お前さ」
 いつの間にか、アイードはゼダのことを”お前”と呼んでいた。それに対して違和感を感じることもなく、反発を感じることもなかったが、少しずつ彼の空気が変わっていることにゼダは気づいている。
 太内海と同じ色の碧がかった青い瞳は、夕日と合わさって複雑な色合いを見せ、彼の方に向けられている。いつの間にか妙な凄味を漂わせながら、彼はそこに存在していた。
「顔を真っ二つに裂かれた男が、それまでと同じように生きていけると思うか?」
 ふとギクリとした。どこか冷たいような鋭いような、そんな言葉にゼダが返事をしかねていると、アイードは別に返事など待っていないように続けた。
「俺は思わねえな。それまで命懸けでカッコつけて生きていて、それだけが取り柄だと思っていたのに、それを全否定されて、敗北の証を顔に刻まれたんだぜ?」
 アイードは相変わらず温和な表情を変えていない。しかし、明らかに彼の視線が冷たく剣呑な気配に変わっている。
「英雄なんてのは、一回でも負けりゃ終わりなのさ。頑張って頑張って宝石に見せかけてたものに、泥がかけられて、本当はただの石ころだって暴かれちまう。どんなにカッコつけた所でな、結局、これは蹂躙されて敗北した証なのさ。身の丈にあわねえ虚勢張ってた罰みたいなもんだ」
 アイードは目を伏せ、ゼダに背を向けて欄干にもたれかかる。夕日の逆光を浴びて、アイードの髪がなお赤く光って見える。
 ゼダは黙っている。アイードの背中を睨みつけるように見やりながら、彼は歯噛みして黙っていた。
 川面がキラキラと、夕日を跳ね返して美しく輝いていた。
「本当、しょうがねえな、まったく」
 沈黙に耐えかねたように、アイードがふとそうつぶやく。
「やっぱり、お前等見てると昔のことを思い出すぜ。自分の中に流れる血を呪ってみたり、それでも誇ってみたかったり、夢と現実の間で憧れたり幻滅したり……」
 アイードはそういうと、ちらりと半分だけゼダに顔を向ける。
「せっかくだから、ちょっと昔の話をしてやるよ。なあに、長い話だが手短にまとめるから。時間があって、気が向いたら聞いていきなよ」
「な、……何の、話だよ」
 ようやくそれだけ絞り出すように言うと、アイードは頷いた。
「昔のとある男の話さ。そいつの名前は東風(アフェリオット)っていう。とある名家に生まれてさ、でも、家庭環境には結構問題があったんだ」
 ゼダがじっと彼を見つめると、アイードはそれを肯定と取ったのかゆっくりと昔話を始めていた。  
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