一覧 戻る 進む


エルリーク暗殺指令-14


 つい、と額に血が垂れる感覚がして、ほどなく右の視界が真っ赤に染まる。
(ああ、いかんな。視界が、悪くなる)
 他人事のようにそう思いながら、彼はしかしどうすることもしなかった。
 自分から血が抜けていく、この感覚が彼は好きではない。何度経験しても、嫌だと思っている。
 昔のことを思い出してしまうからかもしれない。


 火の手が上がり煙がゆるゆるとのぼる中、彼は倒れていた。まるで、赤い赤い血の海に沈んでいくようだ。沈んでいくたび、目の前がゆっくりと赤く染まっていく。その赤いのが、自分の血か、相手の血かわからない。痛覚も感覚もない。
 ただ、目の前が赤一色で塗りつぶされて、もう何もかもわからなくなっていた。
 裏切られた憤りも、悲しみも、恨みも、頭を割られた痛みも、何もかももうわからない。自分はもう死ぬのだと思っていたのに、ただ、冷たくなっているはずの体が、その赤い色で目を覚ましたように、異様に熱く感じられる。
 誰かの声が聞こえた。自分を害そうとするものの人影が、真っ赤な世界に黒い影を落とす。
 ――排除せよ!
 そう声が聞こえた気がした。ふいに頭の芯から熱くなった。
 目の前に立ち、自分にとどめを刺そうとするものが、彼の赤い世界に影を落とす。
 ――目の前にいる者は排除せよ!
 動かなかった体に熱が滾り、軽くなった。
 ――さあ、殺される前に殺すのだ!
 はあはあと獣のように誰かが荒く息をつく。血が滴り落ちていくのに、熱病に罹ったかのように頭の芯から熱くなる。
 だから、彼は拳を握った。まだ剣の柄の感触がした。
 熱に突き動かされて、彼は相手に剣を振るった。
 相手は起き上がってこなかった。周囲にいた男たちが慌てて剣を向けてきたが、それにもとびかかるようにして応戦した。 
 いつの間にか彼は笑っていた。いや、彼は自分の声だと、それを理解していなかった。どこかで悪魔が笑っていると思っていた。

 そのときから、彼には魔物が棲みついた。

(何故。いまさらこんなことを思い出す?)
 朦朧とした意識の中で、彼はそんなことを自問していた。
 目の前には男が二人いて、そして自分は好き勝手殴りつけられている。腹立たしいことではあったが、目の前があまりにもまぶしいし、力が入らなくて体が動かない。痛みはあまり感じない。好きなようにすればいい。そう思えるほどだ。
 それなのに――。
 殴り倒されて、叩きつけられたのか、目の前に男の足が見えていた。男は陶器の水差しでも踏みつぶしたようで、周囲に破片が飛び散っている。
(そういえば、あの髪飾りは……)
 男の動作で、彼は踏みつぶされた髪飾りのことをぼんやりと思い出した。
(あの髪飾りは、ローゼに似合ったはずだった……)
 そう思いだすと、ふと怒りが込み上げてきた。煮えたぎる熱い衝動が、彼の血を逆流させるようだった。
(ローゼに似合ったはずだったのだ! それを――!)
 ――殺す! 殺してやる!
 誰かがそう叫ぶ。
 目に血が入っていて、視界は赤い。冷静な自分が止めようとしても、衝動だけが勝手に暴走する。
 だから、赤い世界は嫌いなのだ。心地よいほど熱くて愉快で、そして自分を獣に変えてしまう。

 だが、それに、彼はいまだに抗うすべをもたなかった。止めることは彼自身にもできなかった。

 *

 ほぼ一方的な展開だった。
 何かを待っているリリエスはともあれ、アーコニアはややイライラしているようであるし、反対にネリュームはこれでいいのか、というような視線をリリエスに送っている。
 ジャッキールは一方的に暴力を受けていたが、はっきりした反応も示さず、意識が朦朧としている様子で手ごたえがない。蹴倒されて壁にぶつかり、ずるずると崩れ落ちても、かすかに身じろぎするだけだ。
「コイツ、もう死んでるんじゃねえか?」
 暴力をふるっていた男の一人が、あざ笑う。
「いい加減面倒になったし、そろそろ、トドメ刺しちまおうぜ!」
 男の一人が楽しげな声をあげ、胸倉をつかんでジャッキールを引き起こし、顔を殴りつけようとした。が、そのとき、唐突にその手首に力が加わった。
「なッ!」
 男は慌てた様子になり、その手を振りほどこうとしたが、手首が砕けそうなほど強い力で握られている。
「なんだ、っ、てめえ!」
 ジャッキールに目をやると、彼は獣じみた動きで頭をもたげた。先程壁に打ち付けられたときに頭を切ったらしく、右目にかけて血が流れていた。その血を振り払いながら、彼はギラリと男を睨んでいた。篝火の光を浴びて、その目は異様に紅く光る。殺意だけを目に灯し、彼は目を見開いた。
「ひッ!」
 その視線に射られて一瞬男が怯んだ瞬間、がっとジャッキールが男の頭をつかんだ。相手が驚いている間に、彼は男を振り回すようにして壁に叩きつけていた。その一撃で気絶したのか、男はぐったりと崩れ落ちた。
「うわー」
 ネリュームが感嘆の声を上げる。
「今の動き、すっげー」
「うふふふふふっ」
 リリエスが思わず気味の悪い笑い声をあげた。ギライヴァーがちらりと彼を見やると、彼は陶酔しきった表情で檻の中のジャッキールを見ていた。
「ああ、やはり美しいですね。正気を失って暴力性にだけ支配された獣こそ、最高に美しいですよ」
「っ、てめえッ! 目エ覚ましやがったのか!」
 もう一人の男が警戒して彼を睨む。ジャッキールは血混じりの唾を吐き捨てると、声に反応して彼を見た。一言も発しない。ただ、獣のような荒い息遣いと低いうなり声だけが聞こえ、開いた瞳に殺意だけを滲ませている。
「死ねえッ!」
「がああああああああッ!」
 男がとびかかった時、ジャッキールは咆哮した。男がまっすぐに飛び込んでくるのをかすかに体を傾かせて避けると、そのまま首をつかんで振り回して殴り飛ばして床にたたきつけた。そして、容赦なく男の頭を足で踏みつける。すでに男はひくひくと痙攣しはじめていた。
「おいおい、殺しちまうぜ、アレ」
 ギライヴァーはうんざりした様子で呟き、ちらりと横目でリリエスを見やった。
 リリエスは、まだこの光景に魅せられたままで、ギライヴァーの声にも返答しない。ただ頬を紅潮させて、彼はこの光景に魅入っているのだ。
(ちッ、ド変態が!)
 ギライヴァー=エーヴィルは、舌打ちしながら声に出さずに吐き捨てた。
 ジャッキールはというと、息を整えながらじろりと踏みつぶした男を見やる。焦点があわないままの瞳はただ殺意に揺れる。とどめを刺すつもりでしかない彼が、次の挙動に移ろうとした瞬間、彼の目の前に突然松明が投げ入れられた。
 急に目の前が明るくなったのが、彼には思いのほかまばゆいのだろう。ぎゃあっと悲鳴を上げて飛びずさる。次にすかさず甲高い笛の音が響き、恐れるように彼は耳をふさいで床にうずくまった。
「ネロ! 早く抑えなさい!」
「わかってるってーの!」
 アーコニアに命令されてちょっと嫌そうに、しかしネリュームは素早く縄をつかんで飛び出した。暴れる彼に縄をかけ押さえつける。
「ちょ、落ち着いてって。もう何もしないからさあ!」
 ネリュームはそんな風に声をかけるが、まともな返答はない。
「ネロ、落ち着かせる薬でも投与しておきなさいよ」
「いやでも、あんまり追加すると危ないし。この人、すぐ暴走しちゃうからさー。袋かぶせて様子見るー」
 そういいつつ、ネロは猿轡を噛ませて袋をかぶせてみる。暗くなったので少しは落ち着いたのか、ジャッキールは少し落ち着いた様子になり、抵抗しなくなっていった。
 ネリュームはため息をつく。
「やれやれ、今の、笛とかなかったらやばかったなあ」
「おい、笛ってなんだよ、笛ってよ」
 その様子を見ていたギライヴァーが、ふと頬杖を突きながら尋ねた。
「俺には単に高い音にしかきこえなかったが、なんでコイツにはこんなに効いてるのさ?」
「この笛ですわ、殿下」
 陶酔して返答しないリリエスに代わり、小枝のような小さな笛を手にもったアーコニアがギライヴァーに答える。
「投与した薬の影響で、高音に過敏になるようにしているのですわ。光にも過敏ですけれどね。特に、音でアイツを躾けられないかなって、リリエス様が」
 アーコニアは心底嬉しそうな顔をしつつ、にんまりとする。
「うふふ、犬を躾けるにはちょうどいい道具ですわ、笛って」
「ふーん、イヌねえ」
 ギライヴァー=エーヴィルは苦笑した。
「手を噛まれない程度のイヌならいいけどよー、その程度で躾けられるイヌかなあ、狂犬(コイツ)」
 ギライヴァーは呆れたようにいいながらため息をついた。
「ま、それなりに面白い見世物だったがよー。んで、うっとりしっぱなしの、リリエス=フォミカ様は、コイツをどう使うつもりで俺に見せたのさ?」
 ド変態が、と口には出さずに態度に出しながら、ギライヴァー=エーヴィルは尋ねてみる。
 そう尋ねられて、ようやくリリエスはため息をほうとつき、彼の方に向き直った。まだ先程の陶酔の余韻が残っているのか、妙に艶めかしく、そうしたところが余計に不気味だ。
「それは色々ですけれどね、殿下。例えば、貴方方が探している三白眼の男と戦わせてみるのもよいでしょうし。ホラ、ラゲイラ卿は、エルリーク総司令の指輪を探していらっしゃるのでしょう? 彼が持っているかもしれないという話はとっくに聞いております。だからこそ、女狐様は彼を狙うのだと。エーリッヒはどうやら彼とオトモダチみたいですからね?」
「刺客にするなら、こんなまどろっこしいことしなくても刺客さしむけりゃー十分さ。それで傭兵も雇ってんだろ、お前はさ。ふん、こんな狂犬、いつ主人に牙向くかわかんねえぞ?」
「ふふ、まあ目的はそれだけではありません。エーリッヒはちょっと特異体質なところがありましてね、こうした薬の効きがいまいちよくないらしいのです。でも、彼をしてどんなふうに効くのか試してみたかったんですよ」
 不意にリリエスがそうつぶやいて、手のひらに二枚貝を取り出した。その中には膏薬のようなものが詰められているが、どうもそれが例の薬らしい。
「先ほどご覧になったように、この”紅月の雫”、なかなか面白いクスリなのです。そこに転がっている二人も、同じものを投与していますが、量を調整してある。うまく使ったり別の薬と併用することで、様々な症状を出すことが可能です。エーリッヒみたいに狂わせることも、それほど難しくもないでしょう。でも、まだ完成しているわけではないので、いろいろと実験してみたいのですよね」
 リリエス=フォミカは、長い爪の生えた指で二枚貝の表面をなぞる。
「それで、私たちの元請け女狐様は、とある恐れ多いお方を実験台にしてよいと。いえ、この薬ですぐに死んでしまっては、女狐様が疑われますから、……どうせなら生かしたまま心を狂わせてしまえばよいと」
 そこまで言ったとき、ふいにギライヴァー=エーヴィルは立ち上がった。
「おい、待てよ」
 ギライヴァーは少し険しい表情になった。
「まさかお前……、それをシャルル=ダ・フールに盛ろうっていうんじゃねえだろうな?」
「おやおや、殿下ともあろう方が、そんな恐れ多いお名前を出してもらっては困りますね」
 リリエスは口元を袖で覆いながらくすりと笑った。その瞳を不気味に輝かせつつ、彼は言う。
「女狐(サッピア)様は彼に今まで毒を盛ったことがありましたが、ことごとく失敗したとおっしゃられていましてね。けれど、私は毒薬の専門家ですし、経験も豊富ですから、成功できるのではないかと。それに、すぐに目立った症状が出ないように調整するので、彼も警戒しないでしょう。体の異変がさほど出ずに精神的に壊れていくだけなら、さて、それが薬のせいと気づくかどうか。やんごとない方が精神を病むのは、よくあることです」
「女狐はそれを公認してンのか?」
「ええ、もちろん。あ、でも、女狐様は、ギライヴァー殿下には使えとはおっしゃっていませんでしたよ。それに、私も女狐様より殿下の方が昔馴染みですからね。こちらの手の内も知っているでしょうから、盛ろうとは思いませんよ」
「へえ、そりゃあよかったね。俺もこれ以上、イカレたくねぇからよー。だが」
 ギライヴァーは皮肉っぽく笑ったが、何故かその表情は曇っている。
「まさか、女狐の奴、国王一人狂わせておいて自分が無事で済むとでも思っていやがるのか?」 
「おや、殿下はまさか粛清の嵐でも吹き荒れるのではとご心配で?」
「サテね。俺は、あのくそ生意気な甥っ子がぶっ殺されるのは別に構わねえんだが、どうもそういうまどろっこしいやり方が好かねえんだよ。あの女、昔、この国で王が狂ったら、どうなったかって知らねえわけじゃねえ筈なんだが……」
 ギライヴァーはそう吐き捨てたが、何を思ったかふと表情を改めた。
「って、まァ、こんな内輪話、おめえにいったところでしょうがねえよなあ。あの女のやる事さ。どーせ、部外者の俺に止める権限なんかありゃしねえんだからよォ。ま、俺に被害がこねえようにしてくれや」
 ころりと態度を変えて、ギライヴァーはおどけるようににやりとする。
「そりゃそうと、三白眼がどーたら言ってたがどうするんだ。その三白眼のヤツが、この状況作ってるんだったら、さっさと始末しにいくかなんかしねえのか?」
 ギライヴァーはちらりとジャッキールの方を見た。
「その狂犬、テメエも、無事に長いこと飼えると思ってないんだろ? だったら早いこと引き合わせねえとマズイんじゃね?」
「はは、そうですねえ。実は今日はエーリッヒにはかわいい女の子との逢瀬の先約が入っているのですが……」
 リリエス=フォミカは、二枚貝の入れ物に軽く唇をふれながら言った。
「実は迎えを遣わしているのですよ。その逢瀬に、間に合うなら彼も同席してほしいなと思っているのです。けれど、素直に来てくれるかどうかはわかりませんけどねえ」 

 *

 ひっきりなしに襲ってくる刺客に、シャーは辟易し始めていた。
(くそッ、意外と数が多いうえに、滅茶苦茶しつこいじゃねえか!)
 シャーの予測が間違っていなければ、彼らはサッピア王妃の下で働いている”極彩獣(ごくさいじゅう)”とかなんとかいう集団だろう。ザハークの時と同じ手のものたちと思われるが、それにしても今日は――。
 は、と殺気に感づいて、シャーは思い切り体をかしがせる。その空間を短剣が通り抜けていく。
 きッとそっちをにらみつけると、闇の中で何者かが逃げていくのが見えていた。
(なんか、ちょっと毛色の違うやつもいるのか?)
 数が多く、なんとなく連携が取れていないところがある気がする。あの組織は連携だけはしっかりとれている印象だったので、なんとなく違和感がある気がした。
 だが、今はそんなことを考えている場合ではない。
(ちッ、まともに相手するのは、賢くねえな)
 奴らが襲ってくるのは、この人気のない路地裏だけのはずだ。
 一緒にいる組織がどんなものなのかはわからないが、少なくとも極彩獣のような組織は人目に触れるのを嫌う。よって、人通りがある道で、襲ってくることはまずもってあり得ない。だから、大通りの方に向かって逃げていくのが得策だ。
 とはいえ、相手もさるもの。簡単には通してくれないだろう。
 ふいに闇に光が閃いて、シャーはそれを剣ではじき返す。ちらりと火花が散り、そのまま相手を突き上げると慌てて逃げていく。
(あいつ等、刃に毒塗ってたりするからな)
 冷静に考えると、個々の能力は大したことはない。ただ、かすり傷でも負わされると、後々厄介なことになる。それを避けるには、どうしても慎重に相手をする必要があるのだ。
(面倒だな。一気に突っ切るか?)
 先に戻らせたアイード=ファザナーは、援軍を呼んでくるといっていたが、シャーは実のところ彼にはそんなに期待はしていない。いかに頼りない彼とは言え自分の身ぐらいは守れるだろうから、その辺は大丈夫だとは思うが、彼の頼りにしている詰め所はここから遠いのだ。援軍を呼んでくるまで待っていると、さすがにシャーも無傷を通せるかどうかわからない。
 シャーは闇に目を凝らして、敵が手薄そうな進路を探す。
 と、ふいに、背後から人の声がした。
 わああああ、という数人の男の叫び声のようなもので、シャーも敵もはっとそちらを見た。
 闇の中から男たちがこちらに向かって叫びながら走ってくる。最初は自分を狙った敵の援軍かと思ったが、向かってくる男たちはどうも水夫らしい服装だ。しかも、薄明かりで見える表情は恐怖に怯えているようであり、とてもではないが援軍に来た雰囲気ではない。何かに追われていて、彼らはこちらに逃げてきたように見える。
「な、なんだ?」
 一瞬拍子抜けたシャーだが、慌てて道をあける。松明を掲げて走ってくる彼らに、敵も姿を見られるのを嫌って、一斉に身を潜めたらしく影が消えていく。
 男たちが大声を上げて騒いだせいもあって、近くの住人たちが何かあったのかと様子を見に外に出てきている。彼らはそれを嫌ったのだ。
「いやあ、お待たせいたしました」
 駆け抜けていく男たちを見ていたところで、ふいに場違いなのんきな声が近くから聞こえた。ふいに廃墟の壁に長身の男がひょっこりと寄りかかって立っている。月明りでわずかに赤く見える髪の色と声は、彼がアイード=ファザナーであることを示している。
 アイードはシャーが自分を見たのを知って、にんまりと笑って近寄ってきた。
「いやあ、よかったよかった。変に怪我されてると、後で何言われるかわかったもんじゃないですからね、”俺が”」
 わざとそんなことを言いながら、アイードはにやりとした。
「しかし、効果てきめんですね。あいつ等、人がいると襲ってこないんですね。どうやら逃げちまったぽいですぜ」
 アイードの言う通り、確かに彼らの気配は消えている。
「さて、じゃあ今のうちに参りましょ? 大通りまで抜けちまえばこっちもんですもんね」
「ああ」
 アイードに言われてシャーは小走りで、その暗い路地を抜けていく。後ろからアイードがのんきについてきていた。
「アイード、なんなんだ、あいつ等。お前の部下じゃないよな?」
 不意にシャーがそう尋ねると、アイードは肩をすくめる。
「いやあ、すんませんね。遅くなりまして。意外と詰め所まで遠いんで、ちょいとそのあたりにいた気のいい船乗りさんに、助太刀お願いしたんですよね」
「気のいい? めちゃくちゃ人相悪かったじゃねえか」
「いやあ、ほら、海の男は職業柄強面になりやすいんで」
「しかも、なんかやたらとびびってたみたいだが、何にびびってたんだよ?」
 シャーは怪訝そうににらんでみるが、アイードはどこ吹く風だ。
「へえ、そうでしたっけ? そりゃあ、相手が意外と本格的にヤバげなんで、怖がったんじゃないです?」
「どうだか」
 アイードが何かしらやったのだろうな、とはシャーは思っていた。
 アイード=ファザナーは仮にもこの川岸一体を支配するファザナー一族の長。いわば、周辺は彼の縄張り同然なので、ああいう脛に傷持つ連中には何かと強い。なんかあったらしょっ引くなどといえば、すぐに協力は取り付けられる。
 が、ちょっと怯え方が妙な気もする。一体何をしたのか訊いてみるか? そんな風に思ったとき、アイードの方が尋ねてきた。
「それはそうと、なんで襲ってきたんですかね?」
「奴等とは何かと敵対してるからなあ」
「でも、ここんとこ、襲ってきたりしなかったでしょ? いや、ほら、貴方が割と怪しい人物だっていうのはあるんでしょうけど、女狐さんもこの間の失敗の手前、おいそれと手を出すことはしねえと思ってたんですが」
「ああ、確かに」
 彼らに、自分の正体がばれているとも思えない。ただ、確かにシャルル=ダ・フールに近しい人物であるとのうわさは流れているだろうから、そういう意味で狙われることはあったが、あまり表立って襲ってくることは少なかった。
「それに、俺がいるのわかってるんでしょうにね。殿下(アナタ)はともあれ、さすがに俺の顔は割れてんでしょ?」
「カワウソ兄さんは、なんていうか将軍感ないからな。気づかれなかったんじゃね?」
 シャーは思わず冷たく言ったが、確かに同行者がいるときに襲ってくるのも少ない。
「……もしかして、司令官(エルリーク)の指輪か? オレが持ってるって予測されてるんじゃないか?」
 ぼそりとシャーが呟く。
「ああ、それはあり得ますねえ。なんだかんだで、奴等はそれが目の上のコブですし、やりようによっては悪用できますから」
 アイードは顎を撫でやりながら頷く。
 大通りが近くなっていて、もはや気配も殺気も感じない。シャーとアイードは自然とゆっくりした歩みになっていた。
 ふと見ると、そこで一人の男がへたり込んでいた。かなりの屈強な大男だが、船乗り風の服装に見覚えがある。先程駆け抜けていった男たちの一人らしい。彼らと同じく、大通りが近くなったので安心して休んでいるのかもしれない。
「あれ、さっきの」
「あー、本当だ。なんだ、置いてかれちゃったのか? 兄貴分なのに可哀そうに」
 アイードはそんな感想を述べつつ、彼の方に近づいた。
「よう! さっきは協力してもらって悪かったな」
 と声をかけると、大男はぎょっとして彼を見て思わず情けない声を漏らす。が、アイードはいつもの調子でのんびり続けた。
「ははは、悪かったね。おかげで色々助かったぜ。さてと、これはお駄賃だ」
 そういってアイードはしゃがみこんで財布からいくらか銀貨を取り出すと、男に握られせる。
「っ、て、てめえッ……、一体……」
「そうそう。せっかくお駄賃をやるんだから、アンタ達の親分に伝言いいかな?」
 異常におびえている男が何か言いかけるのを無視して、アイードはにんまり笑って男の肩に手をかける。
 そうして、アイードは口を開くが、そこから飛び出したのはシャーの聞いた事のない言葉だ。
(え、何語?)
 素直にそんな風に思ってしまいつつ、シャーは耳を凝らす。
 遠征が多かったこともあり、シャーも実はいくつか外国語に親しむことがあった。片言でやり取りできる言語もあれば、まったくわからないものの”何語”であるかぐらいはわかるものもある。
 が、どうもアイードの話している言葉は、そのどれもでもなさそうだ。ただ、”アーノンキアス”などどうやら人名らしいものが聞き取れただけだ。
「ってことで、まあ、親分さんにそのまんま伝えといてくれ」
 短く話し終えてアイードは穏やかに言ったが、男の方は顔色が真っ青になっている。アイードは気にした風もなく立ち上がり、それじゃといってシャーのところに戻ってきた。
「んじゃ、行きましょうか、お坊ちゃん」
「おい」
 先に歩き出すアイードに慌ててついていきながら、シャーはアイードを見た。
「お前、アイツに何言ったんだ? 怯えすぎだろ?」
「別に。ちょっとお礼の金が多かったんで、びびったんでしょ?」
「顔も腫れてたみたいだしさ」
「船乗り同士で喧嘩すんのはよくあることですって」
 涼しい顔でアイードは答える。
「協力してもらう前、酒場で喧嘩してたぽいですからねぇ」
「ふん、本当かよ」
 どうも納得いかない。シャーは続けて尋ねた。
「で、お前、さっきなんて言った? 何語だよ、あれ?」
「何語って言われましても」
 アイードはやや困った顔をしつつ、
「あの船乗り、ちょっと西の方の出身でしてね。アーヴェ周辺で使われている言語で、彼らの親分に挨拶したまでです」
「気に入らねえな。オレにわからねえ言葉にしただろ、わざと」
 ぎろっとシャーににらまれて、アイードは苦笑する。
「そんなことありませんてば。疑心暗鬼ですねえ、お坊ちゃんは」
「それじゃ何て言ったんだ?」
 不機嫌にそう尋ねると、アイードは笑って言った。
「ここにいるつもりなら、いずれ顔合わせたりするだろうってことでね。それで挨拶しました」
「で?」
 不意に月が建物の陰に入る。アイードはそっと微笑みながら言った。
「”今後ともヨロシク”って」
 不意にシャーとアイードの目の前を、あまりよくない人相の男たちが通り過ぎる。一瞬、アイードの方に目をやったが、急いでいるのか無視して去っていく。
 絡まれたら厄介だ。二人は、リーフィの酒場への道を急いで早足で立ち去った。


 男たちはそのまま道を進む。角を曲がったところで、一人残された大男を見つけ、兄貴、と声をかけた。 
「兄貴、どうしたんです? 探してたんですぜ? なんか騒ぎがあったっていうから」
 先ほど逃げ散っていった男たちとは別の集団らしく、きょとんとして周囲を見回している。
「いや、なんか喧嘩でもしてるのか、妙な声上げて走り回る集団がいるとかなんとかいわれたんで、とうとう兄貴狂ったかと思いましたよ」
 へへへと笑いながら続ける背の低い男に、兄貴分の男はようやくため息をつく。
「ちッ、他人事だと思いやがって……」
 兄貴分の男は冷や汗をぬぐう。
「アイツはもういねえよな?」
「アイツ?」
 きょとんとする小男に、兄貴分の男はもどかしげにつづけた。
「顔に傷のある赤毛の男だ! この先を二人で通って行ったろ?」
「ああ。そいつなら見かけましたけど、何です? 追いかけて行ってシメますか?」
「や、やめとけ!」
 兄貴分はおびえた様子で止めた。
「あいつは絶対関わんな!」
 兄貴分の男は首を振って、ようやく立ち上がった。
「あんな奴人間じゃねえよ。あの野郎、すっとぼけたフリしやがって! アイツの目は獣の目だぜ」
 怯えている様子の兄貴分に、小男は怪訝そうに小首をかしげた。
「ど、どうしたんです? 何か言われたんですか?」
「ああ。アーノンキアスの兄貴に伝えてくれってな……」
 兄貴分は吐き出すように言いながら、先ほど彼に囁かれた異国の言葉を思い出していた。
 あの男は、月の光を逆光に赤い髪を揺らしながら言ったのだ。穏やかな表情と声で、しかし、その視線は彼をしっかりと射抜いていた。
 太内海の色に似た瞳は、彼の雰囲気に似合わない物騒な光をぎらつかせ。 

 ――ここは俺の縄張りだ。テメエなんぞいつでも沈められるんだぜ。だから、精々静かにしているんだな、アーノンキアス。
 一覧 戻る 進む