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無双のバラズ-4

 シャーは、隠れ家までの道をリル・カーンと歩いていた。
 隠れ家とは、いつぞやゼダから貸してもらった彼の別荘のことだが、最近はシャーの根城の一つにすっかりなっていた。いつもの連中は皆そこのことを知っているわけで、ただの溜まり場みたいなものでもある。
 そんなところに、リル・カーンを迎えるのもどうかという話ではあるのだが、とはいえ部屋が汚くなると、すかさず綺麗好きのジャッキールがやってきてピカピカに磨き上げていくので、居心地の悪い場所ではないのかもしれない。
 まだ日が落ちきっていない午後。もうすぐ夕暮れになろうというところ。
 リーフィによって、なし崩し的に、指輪を取り返すための作戦の行動部隊として指名されてしまったシャーとバラズ爺さんだったが、バラズは「決行はそれでは夜の部で」「着替えがいるからまた後で」とかなんとかいって一旦屋敷に帰ってしまった。本当に待ち合わせ場所に来るのかどうかも不安だし、あの頼りない感じの爺さんに何ができるのかも不明なのでかなり不安だ。しかし、バラズが帰宅したのには、おそらく、リル・カーンのことについて、彼の後見人のナズィルと打ち合わせすることも目的に含まれているのだろうから、シャーとしても止める理由はないのだった。
「それじゃあ、私、ジャッキールさんにでもリル君の護衛頼んでくるわね」
 リーフィは、早速そんなことを言いだした。
 こういう時は、色んな意味で非常に便利な隣人である”普段の”ジャッキール。もしかしたら、今時分ならザハークもおまけについてくるかもしれない。あの二人はシャーの家庭の事情も知っているので、説明しなくていいのがシャーにとっても都合がいい。
「ええ、そんなの、オレが頼んでくるよ」
「いいわよ。シャーの方が何かあっても、リル君を守れるでしょ?」
 そんなことを言うリーフィだ。
「それに、リル君の寝床なんかも作らなきゃいけないし。だから、ちょっとそのあたりを遠回り……そうね、リル君も外が珍しいだろうから、散歩でもしながら隠れ家に来るのはどうかしら?」
「さ、散歩、う、うん、そ、そうね」
 シャーとしては、実は、リル・カーンと二人きりになるのをできるだけ避けたかったのだが、リーフィのいうことももっともなので、どうにも断れそうにもなかったのだった。
 そんなわけで、シャーは、リル・カーンと思わぬ散歩をしながら隠れ家の方を目指していた。
 リル・カーンは、初めての街中をまだ珍しそうにきょろきょろしているが、何だか無言に落ちていた。シャーもあまり話題がなくて黙っていたのだが、いい加減気まずい。空気に耐え切れなくなって、シャーは声をかけてみた。
「この辺、別にみるとこ何もないだろ? ちょっと埃っぽいしな」
「そんなことありません。私は初めて街に出たので、なんでも目新しいのです。シャーさんに案内していただけて嬉しいです」
 と、リル・カーンは素直に答えた。
「そんなもんかなあ。あー、え、ええっと……」
 名前を呼ぼうとして、シャーは少し躊躇う。殿下というのはマズイし、かといってリルと呼びつけにするのもどうか。いや、本来ならそうできるのだが、本来そうできる身分であることが、逆にシャーをためらわせてしまう。
「あ、私のことは、リルで結構ですよ。今は私の身分のことは忘れてください」
「そ、そうか。じゃあ、リルで……」
 リル・カーンが気を利かせてそう申し出たので、シャーはちょっとほっとしつつ名前を呼び、リル・カーンはにこりと笑った。
(うーん、ホント、あんまり親に似てねえのなあ)
 特に母親には似ていないような。整った顔立ちであるところは父に似ているのかもしれないが、父には線の細さはなかった気がする。
 そんなことを思いながら、それにしても、妙なことになってしまったとつくづくシャーは思っていた。
 まさか、こんなところで「弟」と初めて会話することになろうとは。しかも、彼にとっては仇敵の息子である「弟」だ。一言だって口をきいたこともなければ、正直会ったのだって初めてだった。
「今夜、シャーさんと先生が、指輪を取り返しにいっていただけるのですね」
「え? あ、お、おう、まあ、そういうことだ」
 色んな事に想いを馳せていたところ、いきなりリル・カーンにそういわれて、シャーは面食らう。リル・カーンは、そんな彼にぺこりと頭を下げた。
「本当に、私の不注意の為にお二人にはご迷惑をおかけしてすみません」
「い、いいって。乗りかかった船だしさあ。これもなんかの縁だろ?」
 シャーがそういうと、リル・カーンは彼を見上げた。
「んでも、いいのか? オレみたいなの信用してさあ」
 シャーがふとそういうと、リル・カーンは、きょとんとした。
「いや、だって、オレみたいなふらっふらした奴、信用ならねえと思うし、あんま強くもなさそうだろ。爺さんもそう言ってたんじゃないか?」
「そんなことありませんよ。シャーさんは、信用のできる方だと思っています。それに、強さや信頼性というのは外面からはわからないものだと、教わっています。なんだか、シャーさんを見ていると、その言葉の意味がわかるようにも思います」
 にこりとリル・カーンは微笑んで答えた。
「だから、私はシャーさんを信頼しているのです」
「は、はは。そんな、オレみたいな、街をふらついてるロクデナシなんて、軽々信用しねえほうがいいんだぜ」
 なにやら褒められるとくすぐったくなって、シャーは苦笑いしてそう言ったが、リル・カーンはふと顔を俯かせた。
「本当は、私自身が、もっと強くて信頼性のある男であればよかったのです」
 不意にリル・カーンはため息をつく。
「そうすれば、母もあのような女にならなくてよかったのかもしれません」
 シャーは、ふと彼に視線を向けた。
「母は、もとより権力欲の強い女性でした。しかし、私という男子を得たことで、彼女のその欲望は異常に高まってしまいました。けれど、私は彼女が望むような強い子供ではありませんでした。昔は体も弱かったですし、母のように権力を求めることもなく、平穏を望んでいたのです」
 リル・カーンは、うつむいた。
「最初は弱い私を守ろうとしていたのかもしれませんが、それが余計に母を怪物のような女にしてしまったのかもしれないと思うのです。私がもっと強い男なら、母は、兄をあのように恐れ、抹殺しようとしなかったのではないかと……、そんな風に時々考えます」
「そうか、兄ちゃん、か……」
 シャーは、やや苦い顔つきになりつつつぶやいた。
「リルにとっては、……兄貴は敵じゃあないのかい?」
 リル・カーンは、きょとんとして彼を見上げた。
「いや、だって、リルの母ちゃんと兄貴は戦ったこともあるんだ。内乱の後の処遇で、屋敷に幽閉されてるってきいてるけど、リルは恨んだりしてないのか?」
「とんでもありません。兄はとても寛大な方で、私にとっては恩人です」
 リル・カーンは首を振ってつづけた。
「本来、内乱の後では、私も母も殺されてしかるべきでした。それでなくても、兄弟殺しは、今までのこの国の王なら誰しもしていることです。しかし、兄は粛清をなさりませんでした。内乱に際して多少の賞罰はありましたが、必要以上の罪を問うことはなく、誰一人の血を流すこともなかったときいています。その寛大さゆえに、兄は即位したのだとナズィルもきかせてくれました。私も、そう思っています。ですが……」
 と、不意にリル・カーンは表情を曇らせた。
「私は、兄上と一度もお会いしたことがない。兄上は滅多と他人と会われないという話ですが、私も……。けれど、内心、母のことを怒っていらっしゃるのではないかと思うのです……。母上は、それほどひどいことを兄上にしたのですから、当然ですが……」
 リル・カーンは、顔を上げて首を振った。
「けれど、それでも、私にとって兄上は素晴らしい、尊敬すべき方だと思っているのです。だから、いつか謁見を許され、お話することができればと願っています」
「そ、そっか……」
 シャーは、複雑な表情を隠してかすかに笑ってうなずいた。




 何やら雑談しながら歩いていると、いつの間にか、目の前に隠れ家が見えてきていた。
「あら、シャー、ずいぶん遅かったのね」
 扉を開けると、リーフィが相変わらず無表情にそんなことを言ってきた。
(えっ、だって、リーフィちゃんが遠回りして来いっていうから……)
 とシャーは思わず思ったのだが、リーフィは特に気にした様子もなく、二人を招き入れた。
「ジャッキールさんのところに行ったら、ちょうど前の路上で蛇王さんが大工仕事してたから、一緒についてきてもらったわ」
 ザハークが加わるだろうことは予想通りだし、望ましいことだ。しかし、
「大工仕事?」
「蛇王さんは、手先が器用なので戸棚とか作るのがうまいんですって。それが副業だそうなのよ」
「あ、そ、そうなんだー」
 ジャッキールの内職といい、意外と彼もこの街の日常になじんでいるらしい。元々謎の生活力はありそうな男でもある。
「で、あの二人は?」
「さあ、さっきまでジャッキールさんならお部屋の清潔さ点検してたけど、奥の部屋にいるんじゃないかしら? 私はこっちでお部屋の準備してたから」
「へー、リーフィちゃんの前であの小姑的こだわりの点検してるとか、病的だな、あのダンナ」
 シャーが思わず毒づくと、リーフィが苦笑しながらとりなしてくる。
「あら、そんな意地悪言っちゃだめよ。そうだわ、シャーからも事情をお話してあげてね。リル君は、とりあえず、私とお部屋の準備をしましょうか」
「はい」
 リーフィは、どうやら、リル・カーンとあの強面二人組との対面を後回しにするということのようだ。それはその方がいいかもしれない。
 リル・カーンとリーフィが、隣室に向かって行ったのでシャーは奥の部屋に向かった。多分、そこに二人がいるのだろうと思ったら、ふと、声が聞こえた。
「よし! 次引くぞ、蛇王!」
 妙にテンションが高い声だが、これはどうやらジャッキールの声らしい。
 嫌な予感がしつつ、足を進めると、案の定、奥の部屋ではジャッキールとザハークが座り込んで何かやっていた。その手には、骨牌(カード)が握られている。シャーが入ってきたのに気付くと、二人は彼の方を見た。
「三白眼小僧、ようやく来たか」
「ずいぶん遅かったな」
「遅かったって、いや、オレはリーフィちゃんが遠回りして来いっていうから、散歩して……、それはまあいいんだけどー」
 と、シャーは改めて二人を見た。
 部屋の中には比較的体格のいい男が二人、やたら行儀よく座っている。几帳面なジャッキールとは対照的に、何やら飲みながら遊んでいるらしいザハークの手元に派手に骨牌(カード)が散らかっていた。
「ちょ、あんたら、何やってんのさ」
「そりゃあ、小僧が来るまで待っている間に遊んでいるに決まっているだろう?」
「お、俺は遊ぶつもりはなかったのだ。ただ、コイツが暇だから勝負をしようというからだな」
 ジャッキールはそんな言い訳をしていたが、むしろザハークより彼の方が熱が入っている感じがする。
「勝負って、ただの遊びじゃん。しかも、それ、話題の『獅子の五葉(ごよう)』だろ?」
「いや、そんな話をリーフィ嬢から聞いてな。久々にやってみたくなったのだ」
「遊びではない! 剣で戦うと死人が出るといかんから、街ではこういう風にして勝負をしているのだ。これは男の勝負なのだぞ」
 明るく答えるザハークのことも、きりっとしていうジャッキールのことも、シャーにはどうでもいいことだ。
 よりによって獅子の五葉とは、コイツら……。能天気すぎる!
 シャーは一気にやる気を失いつつ、
「そーですかー。で、どうすんの。オレ、話があるんだけどー」
「ああ、ちょっと待て、俺が次を引けば決まるのだ! ふふふふふ、今度こそ俺の勝ちに決まっているがな。まア、新しく札を引く必要もないのだが、一応引いておくか」
 ジャッキールの笑みや視線がどうも怪しい。
(あーあ、なんかキマったみたいな顔しやがって)
 と、シャーは半ばあきれつつ横目にそれを見やる。
(悪いけど、ダンナがそういう顔してる時は、大概負ける時だから)
 と思った時、案の定、ザハークがにやっとしてバッと骨牌(カード)を裏返した。
「エーリッヒ、悪いが俺はこんな状態だからな、いいものを引かんと負けるぞー」
 ザハークの手には、剣のしるしのついた札が五枚並んでいた。
「う、な、何だと!」
「はははははっ、勝負を降りるなら今の内だぞ、エーリッヒ」
 意地悪くそんなことをいうザハークだが、ジャッキールの方も何やら勝算があるのか、不気味にひきつった笑みを浮かべている。
「馬鹿を言うな! 今の俺の手を考えれば、勝てんことはない! う、受けて立ーつ!」
 ジャッキールは二枚山から骨牌(カード)を引いたが、はっと青ざめてばらばらっとそれを落してしまった。
「ほう、獅子三枚か。惜しいなー、あと一枚獅子が出るか、二枚同じ数字が出ていたらお前の勝ちだったんがなあ」
 ザハークは床の札を覗き込んでニヤニヤし、言葉も出ないジャッキールをからかうように言った。シャーはそんな二人を見ながら、やれやれとため息をつく。
「ちょっとー、蛇王さん、ダメじゃん。喜ぶだけ喜ばせておきつつ、自分がいい役持ってるとかさ、いじめじゃない?」
「いやー、エーリッヒは精神的に揺さぶると弱いからなー。俺は正直、勝ち負けはどうでもよかったのだが、はははー、負けが込んでくるとからかうと楽しいことこの上ないんだな」
「ちょっと、もう、今から獅子の五葉で勝負しなきゃならんってのに、遊びでそんなことしないでくれる?」 
「そういうな、どうせ小僧には、俺やエーリッヒは頭数に入ってないだろうが。俺はそもそも真剣に博打をしないし、エーリッヒは博打するには頭が固すぎるし、顔に出るからなー」
 ザハークがにやっとしてそういうところを見ると、大体、話を聞いているのだろう。
「当たり前だろ。今の見てて、あんた等にますます頼めないよ。ま、自覚あるみたいだけどー」
「俺は、そもそも賭博というのが気に食わん。賭け事などは悪だぞ」
 負けたショックからやや立ち直りつつ、ジャッキールが話に入ってきた。本当に、相変わらず頭が固い。自分だって、さっきまで遊んでいたくせに。
「どうせ勝てるアテもないのだろう。素直に事情話した方がマシではないか。ハーキムはどちらかというと話せる男だぞ」
「そりゃそうなんだけどさ。いやでも、事情詮索されたらマズイじゃん」
 シャーはため息をついた。
「一応、リーフィちゃんから聞いてるんだろ? リル・カーンのことさあ。特殊な事案すぎてだよ、ハダートにも頼めないんだって。さすがにあの女狐と関わることだからね、流石にあいつらも巻き込めないし、できたらあんまり人巻き込まないで穏便に済ませたいんだって」
「確かに。蝙蝠のやつは、一時、女狐にかかわりがあったという噂を聞いたことがある。それだけに関わりたがらんだろうな。他の将軍と名の付くもの達も皆そうだろう」
「そうなんだよ……。だから、ここは正攻法で行くしかないんだよ。オレもあの爺さん頼るとか、まったく不安しかないけど」
 本当にあの頼りない爺さんが最終兵器というのは、正直不安でしかない。どうにもならなかったら、なんかその辺の伝手使って、偽モノの指輪作ってくれそうなの頼むしかない。
「まったく、また難儀なことを引き寄せたものだな、貴様は」
 ジャッキールが、腕を組みながらやれやれと言いたげに深々とため息をついてきた。
「オレが引き寄せたんじゃないってば。……でも、まあ、そういうことで、オレが出かけてる間、お坊ちゃんの面倒よろしくね」
 といって、シャーは二人に背を向けて部屋を出て行こうと思ったが、
「待て」
 いきなりジャッキールが呼び止めてきた。
「話はそれだけか?」
「なんだよ?」
 きょとんとして振り返ると、ジャッキールは腕を組んだままシャーの方を意味ありげに見ていた。
「その少年とは、どうせ今日初めてあったのだろう? 罠ではないのだな? 仇敵の子を助けることになるが、それでも貴様は良いのだな?」
 矢継ぎ早にきかれて、シャーは少しジャッキールを睨む。ジャッキールの方はというと、ため息をついて腕組みをとき、片頬杖をついていた。
「そのことで話すことがあるなら聞いてやる。話はないのか?」
「別に、……話すってほどのことでもねえよ、ねえけど……」
 などと言いながらも、シャーは結局二人のところに戻ってしゃがみこみ、小声になった。
「そりゃあ、オレだって、罠かなとは一瞬思ったよ。でも、どうも本人ではないと疑う余地はないみたいだし、嘘ついてるみたいにも思えないし」
 と、シャーはややしょげた様になりながらため息をついた。
「確かに、アイツに会うのは初めてなんだ。アイツの母親のことは、そりゃあ憎んでるけど、子供は関係ないって思ってた。でも、オレのことを恨んでるんだろうなーとは思ってたのに、母親がしでかしたことは申し訳ないし、兄貴は尊敬しているとかいうし……」
「リーフィさんから聞いたが、ずいぶんと良い少年らしいではないか」
「そう。そうなんだよ……」
 シャーは再び深々とため息をついて、やや貧乏ゆすりしながら言った。
「オレは、こういうふらふらした生活してるから、それで面会断ってるだけなんだけど、それだけでアイツ傷つけてたのかと思うと、もう、オレ、本当、ダメな奴だなーって……。さっき歩きながら話してたら、オレ、もう本当……消えた方がいいのかなーって思うぐらい……」
 とシャーは頭をぐしゃぐしゃとかきやった。思いのほかシャーが落ち込んでしまったので、ジャッキールはやや慌てつつ、
「よ、よいではないか。今回の件、解決に手を貸してやるのだろう? 立派なことではないか!」
 そう言われても、シャーはイマイチ反応が薄い。
「でも、本気で今回ちょっとキビシイんだよなー……。あんなに期待してくれてるのに、ダメかもしれないとか言えない……。よりによって、爺さんしか望みがないけど、どう見ても役に立たなさげだし」
「リーフィさんが大丈夫と言っている老人なのだろう? それなら、もしかして……ということもあるかもしれんだろうが」
「まあ、それはそうかもしれないけど……、ホント、不安しかない……」
 シャーが何とか気を取り直そうとしたとき、不意に向こうの部屋から、彼を呼ぶリーフィの声が聞こえた。どうやら来てほしいことがあるらしい。シャーは、はーいと返事をしつつ、二人に向き直った。
「ま、そ、そんなことで、……とにかく、ダンナと蛇王さん、くれぐれもアイツのこと、よろしくな」
「わかったわかった。気を付けていけ」
 シャーは慌てて立ち上がると、そそくさと向こうの部屋に走っていった。
 彼の姿が見えなくなった途端、相変わらず何を考えているのかわからない顔をして、ジャッキールとシャーの話を黙って聞いていたザハークが、唐突にふっと噴き出した。
「はははははっ、ふははははっ」
 ザハークはもはや耐えられんといった様子で大笑いしはじめ、ジャッキールは腹立たしげに彼を睨む。
「貴様、何を笑っている、蛇王!」
「ははは、すまんすまん、エーリッヒ」
 ザハークは笑いをかみ殺しつつ、にんまりと笑った。
「もともと貴様のことは人情家だと思っていたが、あの小僧には特に甘いな。俺なら自分から言い出さないことは、聞いてやらんぞ」
「別に。一人で抱え込んで、後で病まれても面倒だからだ!」
 ザハークがニヤニヤしながらそんなことを言うのを、ジャッキールは不機嫌にはねのける。
「それならそうでもいいのだが。まあ、でも、また厄介な話を抱え込んできたものだな。おまけに遊びでの勝負だとしたら、あの小僧にもそうやすやすとは勝てるとは思えんからなあ……」
 ザハークはそういいながら、ふと、先程ジャッキールがばらまいた絵札を拾っていた。
「まったくだ。賭け事など、運次第ではないか。あの男、悪運は強そうだが、こういうのは弱そうだからな」
 ジャッキールはそういいながら、ザハークの手元の札を見た。
 獅子の五葉に使う骨牌(カード)には、四種類の印がある。いわゆる紋標(スート)というものだが、「貨幣」「杯」「剣」「杖」の四つだ。それに数字が振られており、それぞれ十三枚あり、絵札がそれぞれ四枚。「十一」が将軍、「十二」が子供を抱いた女王、「十三」が王。そして、王よりも優先される最強の「一」の札が獅子だ。
「それにしても、獅子の五葉とは変わった名前だな、エーリッヒ」
 獅子の絵札を四枚、先程ジャッキールが失敗した役を手にしながらザハークはにやりとした。
「何がだ?」
「何がって、一組の中に獅子の札は四枚しかないのだぞ。五枚獅子がそろうことはないのに、何故五葉というのか? 不思議に思ったことはないのか?」
「俺は札の裏にも、獅子の絵が描いてあるからだと思っていたが?」
 ジャッキールはむしろきょとんとしていた。異邦人である彼にとって、それは異国の遊戯でもあるのだ。そんなものなのだと思っていて、それほど深く考えなかった。
 ザハークは、にっと笑って左手でもう一枚札を出してきた。
「これは万能を意味する札でな」
 そこには、踊りを踊る女の絵札がある。その札は乙女の札と呼ばれていた。
「これをここに合わせれば、五枚の獅子として見ることができる。そして、この役こそが獅子の五葉。そして、この遊戯において最強。つまり、最後の一枚が勝負を決めるにおいて、大切な一枚であるということ……」
「それが獅子の五葉という名前の由来だと?」
「さあ、どうかな。これは俺の考えだからな。実際のところは、よくわからん」
 そう尋ねると、ザハークが急に無責任に突き放してきた。
「ま、何にせよ、最後まで気を抜かないことが肝要であるということだということだ。さっきの勝負と同じだなあ、エーリッヒ」
 ジャッキールがむっとして彼を睨むが、ザハークはそれを無視しながらニヤニヤしながらそういうと、五枚の札を投げ空中にばらまきながら立ち上がった。


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