祭りのあと
やがて内乱は、王都にまで拡大し、王子や重臣の暗殺が横行して、そのときは大変だったけれど、新しい王が即位したことで乱は急速に終息した。
よく知らないが、新しい王様は、内乱中、散り散りになっていた将軍たちに大変人気があるとかで、彼らが団結して王を支持したのが理由だという。さすがに 戦争の専門家である将軍たちがにらみをきかせている中では、王族たちも争い続けるわけにはいかなかったのかもしれない。
世の中を乱していた王族たちは、半ば脅しをかけられたような状況で、強引に和睦させられ、今後争いが表面化した時には、厳罰をもって対処されるという念書を書かされ、ある一定以上の私兵をもっているものは解散させられた。また、そのときの内乱や暗殺等にかかわったものに対しては、財産没収や身分降格などが行われた。
ただ、今の王様はお優しいお方のようで、自分に対立したものたちに血をもって報復することはなかった。あくまでその様は平和的だった。
今の王様は、病弱として、自分が表に出てくることがなく、どういう人物かもわからない。ほとんど政治にも絡んでいないという噂があった。ただ、彼は人前に姿を現すこともなかったが、彼は何もしないが存在することで、逆に国の平和を保っているといえるのかもしれない。
星の女神の予言は当たったといえるかもしれない。新しい王様が即位して以来、表面上は国は平和になり、都は穏やかに賑わいを取り戻していた。
その動乱の中で、あの紅楼の殿様がどうなったかは知るすべがない。あれ以来、彼の姿は、遊里からふっつりと見えなくなり、その噂さえ消えてしまった。王族という身分である以上、動乱に巻き込まれて死んだという噂もあった。その一方で、まだ生きていて、地方に逃れているらしいとも言われていた。どれも確証はなかった。
夕映えのねえさまは、殿様のことをずいぶん心配していたが、そのうちに、素敵な貴族の青年に身請けされ、幸せな結婚をした。彼は、あの時瑠璃蜘蛛の護衛を勤めていた男性で、あの一件が縁となり、二人は相思相愛の仲になった。そして、ねえさまの年季が明けたとき、彼はねえさまを籤で引き当ててくれたのだ。旦那様はとても親切な方で、 夕映えのねえさまが寂しがるからと、世話係として私をいっしょに引き抜いてくれたので、私は今も夕映えのねえさまと一緒にいられる。
今はねえさまもお子様がおり、夕映えという源氏名を名乗ることもなく、貴族の奥様として華やかな生活を送っていた。
一方、瑠璃蜘蛛は、その後も交流があったのだが、彼女もやがて彼女に求婚していた貴族の青年に籤を当てられ、身請けされることになり、婚約して楼閣から出て行った。しかし、不運にもその男の家が、内乱に絡んで敗北し、財産をなくしたことで身を持ち崩し、正式な結婚の手続きを結ぶ前に破談となった。瑠璃蜘蛛は、そのまま 場末の酒場にいきついて、今はそこの酌婦になっているという。
ねえさまが哀れに思うほどの転落だったが、私は、もしかしたら瑠璃蜘蛛は念願だった自由を得たのかもしれないと思った。そう、乙女が真の意味で自由になれるのは、決められた結婚が破談になった時だけなのだ。
あの瑠璃蜘蛛には、他人に決められた結婚をして、平穏に人生を歩むことは似合わない。零落したとはいわれても、瑠璃蜘蛛はいまや自由の身で、どこにいくことにも制限はなかった。私は、むしろ彼女らしいと思ったものだ。
多分、瑠璃蜘蛛は望んでいた自由を手に入れているのだ。
私は、そう考えていた。
そして、ようやく瑠璃蜘蛛の居場所を突き止めた夕映えのねえさまは、今日、私を彼女の元に遣わした。
瑠璃蜘蛛は、うわさどおり、下町の小さな酒場で働いて生計を立てているらしかった。
数年ぶりにあった瑠璃蜘蛛は、遊里特有の派手な化粧を落としており、自然な化粧をしていたが、そのままでも随分綺麗だった。今のほうが自然体の美しさがあり、あの神殿で見た彼女に少し似ていたように思う。
相変わらず作り物のように美しい彼女は、この場末の酒場にはいささか浮いているようだったけれど、元から彼女はどことなく人と違う空気を持っていたし、どこにいても浮いてしまう。だから、別に違和感はなかった。周囲もそれになれているのか、そのような反応だ。彼女自身にはあの頃とは違う解放感のようなものが感じられて、私は彼女が幸せにやっているのだと 思った。
「シャシャ、お久しぶりね。まあ、大きくなって綺麗になったわね」
瑠璃蜘蛛は、目を細めて、珍しくはっきりと微笑んだ。
「今日は姐さんのお使いかしら」
「はい、夕映えのねえさま、今は奥様ですが、奥様が是非瑠璃のねえさまにお会いしたいといっておりまして、お屋敷にきていただきたいと」
「それはうれしいわ。でも、姐さんは、今は貴族の方のお嫁さんだから、私のような女がいってもいいかしら」
「奥様は気にしていません。元は同じ乙女ですし」
「そう、姐さんらしいわ」
彼女が、くすりと笑った時、彼女の名前を呼ぶ素っ頓狂な男の声が割って入ってきた。妙に軽い声だ。酔っ払いだろうか、と私は思わず眉をひそめた。
「あれ、どうしたの? お客さん?」
突然、瑠璃蜘蛛の隣にひょろんと現れた男が私を見た。ぎょろりとした三白眼が、私を凝視する。警戒心をあらわにしていただろう私に、男はひるまずに陽気ににっかと笑った。
「や、こんちは。なあんだ、お客さんだったの? すげー可愛い子じゃん、紹介してよ」
「ええ。古いお友達なの。シャシャ、このひとは私のとても大切なお友達なの」
「そうなんだ。俺たち名前も似てることだし、仲良くなれそうだよねえ。よろしく」
いきなりなれなれしくそんなことをいう。あまりのなれなれしさに、私はますます警戒してしまうが、瑠璃蜘蛛は意外に楽しそうだった。しかも、大切なお友達などという。
男は、このあたりの酒場に来る人間としては、上等なほうに入る青い服を着ていたが、それも随分着古した感じだった。長身痩躯で姿勢が悪く、無精ひげなどはなかったが、どこからどうみても真人間みえない。なんとなく気弱そうで、情けない感じもする。喋り方も軽薄でなよなよしていて、あまりいい印象がなかっ た。
いったい、この軽い男は瑠璃蜘蛛とどういう仲なんだろう。恋人ではなさそうだが、瑠璃蜘蛛がこんな風に親しげに話す相手は昔から限られていたので、その信頼した様子を私は不思議に思っていた。
私ににらまれたとでも思ったのか、男が少し気まずそうな様子になり、そうっと瑠璃蜘蛛の後ろに隠れるように移動した。
「そうだわ。ちょっとうちに帰って、用意してくるわ。余所行きの服に着替えてくるわね。姐さんに恥ずかしい思いをさせてはいけないもの」
瑠璃蜘蛛がそういうのは予想していたので、私は頷いた。
「ええ、それでは、私、少し街のほうを見てきます。実はこのあたりにきたのは初めてなんですよ」
「そうなの。それはいいわね。せっかくいい機会だもの。色々みてまわっていくといいわ」
瑠璃蜘蛛は、そんなことをいい、ふと男の方に視線を向けた。男の方は、そろそろ帰ろうとしていた様子だったが、瑠璃蜘蛛に視線を向けられてどきりとして立ち止まった。
「な、なあに」
「今日は、貴方、お酒は飲んでいるの?」
瑠璃蜘蛛が唐突にそんなことをきいたので、男は困惑気味に答えた。
「え、いや、お付き合い程度に舐めただけ……」
「それじゃあ、酔っ払っていなさそうだからいいわね。シャシャは、酔っ払いが嫌いなの」
「ええ? それってどういう……」
何かいやな予感がする。と思っていると、瑠璃蜘蛛が早速口を開いた。
「あのね、私が準備をしている間、この子に街を案内してあげてくれないかしら」
相変わらず、彼女は唐突にそんなことを男に頼む。男がぎこちない様子でききかえした。
「お、俺が?」
「そうよ。この子は、王都の街に一人で出るのは初めてだもの。特にこのあたりは治安が悪いし、人攫いにでもあったら大変だわ。貴方が一緒にいてあげてね」
「そ、それは、俺だけじゃなくて、その……君が戻ってきてから三人でとかのがよくない?」
男はそういってみたが、瑠璃蜘蛛の怪訝そうな視線にぶつかって、慌てて続けた。
「あっ、違う。今の誤解。いや、嫌だとかそおゆうのじゃないんだよ。俺は、そのー、なんというか、大抵の初対面の女の子に印象がよくないからさ。俺と一緒に歩くのなんて、ちょっと迷惑じゃないかなって思うんだけどなー……」
ねえ、と男は私のほうに視線を向けた。
「なんか、今も、こう、軽くて軟派な男だなーって思われたっぽいしさあ」
「あら、そんなことないわよ。あなたも時々被害妄想が強くなるのね」
「いや、妄想っていうか、実際、今まで……」
男の弁解を聞かず、瑠璃蜘蛛は言った。
「急いでくるつもりだけれど、私を待ってたら時間がもったいないわ。せっかくお外に出てきたんだもの、街を巡るぐらい楽しませてあげてね。お願いね」
瑠璃蜘蛛にそう頼まれた男は、思わず、うん、と答えてしまうのだった。
私は、彼女がそう決めたのだから特に反対することもしなかった。そのまま男と共にこの街を巡る羽目になるのだったけれど、相変わらずだなと思ったばかりだ。
私は、男とともにその街中を歩いていた。思えば奇妙な取り合わせだった。
私は、瑠璃蜘蛛ほどではないけれど、もともとあまりしゃべらないほうだし、あまり愛想もよくないほうだから、もしかしたら、その男には悪いことをしたかもしれない。何かと気を遣ってくれている様子だった。
しかし、男は、なんとなく釈然としない様子も見せていた。彼は、道すがらぶつくさ言いながら、何かを思い出そうとしていたようだ。
「なんだろうなー。昔もこんなことがあったような気がするような。いつだっけ……おかしいな。あんな風に強引に街を案内させられたような、そうでないような」
どうやら、男はこの状況に既視感を覚えているらしかった。ただ、それがいつだったかは思い出せないらしい。そういえば、私も。
――前にもこういうことがあったような気がする。いつだろう。
「なんかこういう暖かい日だった気もするんだけどな。いつだっけ」
そろそろと街を歩きながら、男はぶつくさそう独り言を言ってため息をついていたが、私のほうを振り返って笑った。思い出せないので、あきらめたらしい。
「まあいいや。せっかく外出してきたんだもんね。どこか行きたいとこある? 俺、金はあまりないからあれだけど、いろいろこの街詳しいから、大抵のところには案内できるよ」
男は、慌てたように付け加える。
「あ、その、俺、すごく軟派なやつに見えると思うけど、本当は、結構まじめだから。そんな軽いことないし、見境ない人じゃないからね。ね。安心してよね」
そんなことを言うと余計怪しく思えるのだが、瑠璃蜘蛛が信用しているのだから、いいところもあるのだろうと思う。
私は彼を信用することにして、いくつか装飾品の店を紹介してもらった。新しい髪飾りがほしかったので、こういうところで安くてかわいいものを見られるのはうれしかった。奥様の下ではいいものは手に入るけれど、私のお給金では少し高い。だから、さまざまなものが見られたり、手に入るのが、とてもうれしくて、私は男を置き去りにしてはしゃいでいたと思う。
瑠璃蜘蛛の言うとおり、彼はこの街を知り尽くしているようで、怪しげな横道にふらっと入り込んでは近道をしていた。この周辺は治安がよくないと私も聞いていたが、彼の通る道は人はいないものの、意外に綺麗で安全な道になっていたように思う。それは、私に気を遣ったからなのかもしれなかった。
いくつか店を回った後、彼は私に疲れないかと聞いた。
少し疲れていたので頷くと、男は休憩しようといって茶店に入った。瑠璃蜘蛛との待ち合わせ場所も、そこになっているのでここで待っていればいいと彼は言う。
男は、普段は周りに、あれやこれやたかっているらしい様子だった。周りの顔見知りの男たちが愛想よく、今日は何を俺たちにおごらせるんですかと聞いていたが、男は、今日は女の子がいるから自分で出すから、お前ら安心しろよと笑っていっていた。とても大物にはみえないようだが、彼はそれなりに人望はあるらしく、兄貴分として慕われているらしい。
その割には、なぜか茶店の給仕の女の子たちには、軽く茶化すように声をかけては冷淡にあしらわれていた。なんとなくその理由もわかる気がする。いい人だと思うけれど、なんとなく鬱陶しいのだ、きっと。彼は私には、それほど軽薄に接してこなかったが、店の女性たちにするとそうなのだろう。
彼がとびきりの男前だったら話も違うかもしれないが、それなりに整っているが、ちょっと三白眼が目立つし、なんとなく得たいの知れない感じがするのが余計いけないのかもしれない。
そんなことを考えるうちに、茶と果物と茶菓子をいくつか運んでもらって、彼と私は向かい合わせになっていた。目の前には、林檎がひとつと、茶菓子。それにお茶が運ばれてきている。
「食べる? 皮のままがいやなら剥いてあげるけど?」
男が、りんごを手にして気を遣ってそうきいてくる。私は首を振った。
「ありがとうございます。でも、私それが苦手で……」
「林檎嫌いなの? ここの産地の林檎、かなり甘いのよ?」
男が、目を丸くして聞いた。
「そうですね。あまりいい思い出がない食べ物で……」
そう、あの事件から、私は林檎が食べられなくなってしまっていたのだ。
「そうなんだ。それじゃ、俺がいただいとくよ。そっちの甘いお菓子でも食べるといいよ」
男は私にそうすすめて、手でぬぐった林檎をかじりはじめた。そのまま、彼はなんとなくぼんやりと窓の外をみていた。
季節は春。暖かくなった日差しが、ほのぼのと軒先に降りかかっている。外でなにやらざわざわしているのが、こちらにも聞こえてきた。何かの準備をしているのだろうか。
「なにやらにぎやかだねえ。ああ、そうか、そろそろ星の女神のお祭りさね」
男が、ぼんやりといって大あくびをする。
「すっかり春ってわけだ。道理で眠いと思った」
やる気のない彼の様子を見ながら、私は聞いてみる。星の女神様の祭りは、都の独身の男たちにとっては、それなりに盛り上がる祭りだと聞いている。都の男性の俗説では、女神の加護を得ることができれば、女の子にもてるともいわれているそうだし、花街に通う男たちにはよりその噂を信じる傾向が強い。それなので、護衛になれなくても星の乙女の行列に加わったり、輿を担いだり、周りで騒いだりすることで、女神の加護を得ようとするのだ。
「あなたは、お祭りに参加しないのですか?」
「俺?」
男は、そうきいて苦笑した。
「俺は廓遊びはしないからねぇ。貧乏だし。場末の飲み屋を転々とするだけだし、あんまし関係ないね。アレって大体お大尽の祭りじゃない。俺にゃ縁はないよね」
男は、ついでにやりとした。
「それにさあ、俺は参加できないのよ」
「どうしてですか?」
「あれ、知らない? 女神の祭りに参加したときに、本気で好きな子ができちゃったら、その後はあんまし派手なことできないんだよ。街のやつら、すげー馬鹿騒ぎするじゃない? ああいうのしちゃだめなんだよねえ。ま、貢物をささげるぐらいはいいらしいけど、俺はそんなに信心深くはないし、余裕ないからそんなこともしないし」
男は、大きな目をぐるっと私のほうに向けた。
「知らない? 王都の男の中じゃ有名よ?」
「いえ、知りませんが」
「そっか。女の子は意外に知らないのね」
彼は、そんなことをいいながら、顎をなでやった。
「その日に出会った子は、女神の化身なんだってさ。でも、女神はそう簡単には微笑んではくれないから、大抵その日にであった女の子との恋愛は成就しないのさあ。しかし、女神様に惚れちまったのは間違いないから、祭りに参加して他の女の子に目を移しちゃダメなの。その日出会うのは何せ全員女神の化身なんだから、要はどの女の子にときめこうが、どっちにしろ浮気心がばれちまうということね。で、そうなるとその後の人生にケチがつきまくるって怖い噂なのよ。だから、参加しちゃだめなの。参加をしないことで、浮気するつもりはないよーっていう姿勢を示すってわけ」
そこまで言って彼は盛大にため息をついた。
「とはいえ、俺はあの祭りの日以来、盛大に人生にケチがついたらしくて、まったく女の子にもてなくなったんで、別に今更って思うけどさ。昔はそれなりに大切にされてた気がするんだけど」
彼は、私のほうを見た。
「まあ、仕方ないよね。第一、あの女神さんは、愛と豊穣の女神だけど、戦いの女神様でもあるのよ。知ってる?」
言葉遣いはいいかげんだったが、意外に男はまじめな話をする。
「戦いの女神っていうのは、当然怖い女神さんなんだよ。そして愛の女神でもあるわけ。そういう強い女神様は男を弄んで捨てる権利があるものさ。そんな女神様の化身に一目ぼれしたところで、ふつーの男にゃ荷が重過ぎるってことよね。ほんと、オソロシイ女神様なんだよねえ」
「あなたも、うまくいかなかったんですか?」
そうきいてやると、男は笑った。
「うまくいってたら、さすがにこんなところでぶらぶらしてない筈なんだけども。ま、俺みたいに怪しい住所不定無職だとうまくいくものもうまくいかないっていうかさあ」
自分でそこは認めているらしい。明るくいって男は、横目で私を見た。
「でも、ちょっとね、その子とは出会いがふつーじゃなかったの。それにね、俺の好みってわけじゃなかったし」
私が首をかしげると、男は苦笑して話を続けた。
「誤解を恐れずにいうとね、俺は、君みたいなちょっと気が強そうなコに一目ぼれしちゃうことが多いわけよ。んで、いつもなんだか酷いふられ方をするんだけどさあ。そのコはそういうのじゃなかったの。むしろ俺が苦手な感じのコだったの。俺は、勘がするどくて頭のいいコが基本苦手なわけよ。おまけに美人と来ると、もう警戒するしかないわけ。だってさ、なに考えてるのかわかんなくてこわいじゃん? 俺ってだまされやすいし、本当は色々かわいそうな子だから、基本的に女性不信なんだよねー。馬鹿にしてるわけじゃないんだけど、まっすぐな子のほうが安心するの」
男は首を横にふる。
「ああ、でも、あれは本当に失敗したよな、俺。好きになるとわかってりゃ、最初からやさしくしてりゃあよかったのにねえ。俺ってば、好みじゃなくってちょっと苦手な子だったから、最初冷たくあしらっちゃってさあ。しかも、あの時は、俺も餓鬼だったから、調子に乗ってるときだったし、初っ端にろくでもないこと言っちまって……」
ふうと彼はため息をついて、机の上に猫のように伸びた。
「おまけに、最後にもう逃げないとか宣言しといて、別の方向にものすごい勢いで逃げちまってさ。告白ぐらいまともにできねえのかよっていうヘタレ具合さ。なんであんな曲がったこといって逃げちまうかねえ。俺ってば、本当にダメ男……。せめて、ドサクサにまぎれて抱きしめて、そのまま強引にさらっちまえば良かっただろうにね。そうすりゃあ、もうちょっとまともな人生歩んでたかもしれないのに。できなかった結果が、この住所不定無職の憂き目だよ」
そうつぶやいて、男は身を起こした。
「そう見えないかもしれないけど、俺ってこうみえて根が純情だから、本当に好きになっちゃうと、何もできなくなるんだよね。いろいろもったいない話なんだ、これが」
男はいけしゃあしゃあとそんなことをいう。
「でもさ、女神様の化身だっていうなら、手を触れられないのも当たり前だよね。俺みたいな半端者には高嶺の花だよ」
ふと、どこかで聞いた台詞だなと私は思った。私は気になって、街をぼんやりみながら話続ける彼を見上げた。男は意外に背が高く、間近にいると見上げるような形になる。癖の強い髪の毛をしていて、三白眼で。ふと陽光が差し込むと、その瞳の虹彩が青く見えた。
ああ、この青い瞳。まるで魔よけのお守りのような色。
なぜか私は、そのとき、どきりとしたのだ。どうしたのだろう。私、この人とどこかで会っている気がする。
そう思いながら、不意に笑いながら話す彼の左手の中指をみた。そこには、彼が持つにはいささか高価そうな銀の指輪が嵌っていた。
「ま、俺の場合は、女神様にからかわれたっていうか、そういう感じかな」
私は気がつくと彼の顔を見ていた。
私の脳裏には、しばらく思い出した事のない青年の姿がよぎっていた。
ぽつりと小声で私は、その呼び名をつぶやいた。が、それは男には聞こえなかったらしい。
「ど、どうしたのさあ。俺の顔に何かついてる?」
よほどまじまじと彼を見ていたのだろう。それに気づいた男が、驚いたように私に聞いた。
「い、いえ、なんでも」
怪訝そうにそうたずねる男に、私は首を振った。
そんなことがあるはずがないのだ。そもそも、彼がこんなところにいるはずがない。彼がもし無事に生き延びていたら、きっと偉い人になっていて、こんな下町で飲んだくれているわけがないのだ。それに、この男と彼では、言葉遣いだって性格だって雰囲気だってまるで違う。彼はこんな穏やかで楽しそうな表情をする男ではなかったし、もっと陰があって――。
ただ、少し外見が似ていて、同じ銀の指輪をはめているだけなのだ。それだけだ。
きっと偶然の一致に決まっているはずなのに。
「おや、そろそろ帰ってきたみたいだね。それじゃ、俺の案内役もここまでかな」
彼がそういった声で、私が顔を上げる。いつのまにか、綺麗に着飾った瑠璃蜘蛛がこちらに歩いてきていた。
「いーねえ。今日は一段と綺麗じゃない。一緒にいる俺も誇らしいってもんだよね」
男は、やたらとでれでれした様子でそんなことを言う。そのうちに、瑠璃蜘蛛は店にはいってきた。
「ごめんなさい、遅くなってしまったわ」
瑠璃蜘蛛は、例のとおりの様子でそういった。
「いえ、色々ご案内していただきましたし」
私がそう答えると、瑠璃蜘蛛は微笑んだ。
「それはよかったわ。ごめんなさいね。こんなこと頼んでしまって」
瑠璃蜘蛛は今度は男にそういう。男は、へらへらした様子で手を振った。
「いいよいいよ。俺のが楽しかったぐらいだよ。たまにはカワイイ女の子と街を歩くのも楽しいからねえ」
「でも、本当に楽しそうな顔をしているわね? 何を話していたの?」
「え? いやあ、昔の大失恋の話だよ。俺の涙ぐましい純情さを語って聞かせてたのよ」
そこまで詳しく聞いていないけれど、男は大げさにそういった。
「悲しい話の割には楽しそうね」
「そりゃー、今じゃいい思い出ってこともあるじゃないの。そういうお話さ」
男は、調子よくそういいながら、にやりとした。
「でも、今は俺は、リーフィちゃん一筋だから。その辺もお忘れなくね」
「本当かしら。あなたは口がうまいものね」
「そんな、俺はこう見えて結構誠実よ」
「どうかしら?」
瑠璃蜘蛛が、わざと意地悪めいて言った。
「マジだってば。俺がこうゆうこというの、リーフィちゃんだけなんだからねっ。その辺、ヨロシクしておいてよね」
男は、片目をつぶってみせた。
春の日差しが、ゆるやかに街に降り注ぐ。平和な街だ。
穏やかで平穏な昼下がり。かすかに遠くから、祭りの前の楽しげな空気が伝わってきていた。
『世の中って不思議なことがあるものだものね』
ふと、いつぞやの瑠璃蜘蛛の言葉が、私の耳によみがえっていた。
今年も、また星の女神の祭りが始まる。
終