辺境遊戯・幻想の冒険者達/©渡来亜輝彦2005
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 辺境三部までのネタバレを含みます。 

布売りと彩


 シレッキの街は、比較的辺境に近い街だと言える。街からすでに森が見えているので、恐れる者もいれば、逆に肝試しだとかいっていってしまう者もいる。そこを行き交う商人達にとっては、街道からよく見える位置にあるので、親しみのある風景でもある。より環境に敏感であるらしい辺境の森は、この地方のささやかな季節の変化に対応して、様々な様子をみせてくれるので、街道からも、季節によって咲く花が違うのがわかる。
 朝の街道を歩きながら、布売りは、森を見ていた。朝日の差し込む緑の深い森の向こうにオレンジ色の花が咲き乱れているのが見える。時に外の世界の人間からは、異形に見える花々も、慣れてしまえば、とても美しいものでもある事がわかる。布売りにとって、辺境は遠くて近い場所だった。
 だから、その日、彼は道すがらあった客に、それほど驚かなかった。珍しいな、とは思ったが、それがそれほど特別なことだと思わなかった。
 布を売って欲しい、と、そこに立っていたのは、この地方では珍しい色素の薄い髪の毛に、白い肌の男だった。背が高く、頬に赤い顔料で紋様を描いていたから、恐らく狼人だろう。とすぐに思った。ただ、狼人の筈なのに、着ている服は、東方の草原地方のものであって、やや色あせた紺色の長い裾が、彼によく合っていた。
 彼は狼人をそれほど恐いと思わなかったし、客であれば誰でもいいと思っていたので、別にそのことには気を留めなかった。ただ、それよりも、深い哀しみに沈んだような碧の目が妙に気がかりだった。
「ああ、いいですよ? どれがよろしいですか?」
 布売りは、とりあえず、もっている布を広げて見せた。布売りは、西方と繋がりがあったので、ディルハート側から仕入れた布をたくさんもっていた。おまけに、このカルヴァネス地方では、割と鮮やかな色が好まれるので、赤や黄色や青の鮮やかな色の布が多かった。
 狼人は、暗い目でそれを一瞥して首を振り、隅にあった真っ白な布を指さした。
「それでいい」
「ええ、これですか? 身につけるんでしょう?」
「ああ」
 彼は、きょとんとして、しろい布を見やった。何の染色もされていない布は、あまりにもあじけない。狼人の姿を見ると、もう少し色のあるものの方が似合うと思った。
「もう少し、色の付いたもののほうが、旦那にはお似合いですよ」
「そうかな……」
「ええ。もっと明るい色の方が、いいと思いますよ」
 男は笑いかけたが、狼人の表情は沈んだままだった。
「いいんだ……」
 ぽつりといった彼の声は、なんだか泣いているようで、消えてしまいそうだった。
「俺には、多分、それがいいと思うから」
 布売りは、結局白い布を彼に売った。地域によっては、白い色は神や死者の色だともいう。その時、彼は、行きずりの狼人を何となく心配した。去っていく彼の姿は、何となく悲壮な印象をぬぐいされないものでもあった。


 白い布を、そのまま覆面とマントにした彼は、ふらふらと森を彷徨っていた。
 魔幻灯のファルケンの筈の彼には、その時魔幻灯はもっていなかった。その時点で、森からはじかれてしかるべき存在だったのだが、そんなことはどうでもよかった。
 森を進みながら、時に彷徨う妖魔を狩りながら、それでも、彼の心が晴れることはない。それでも、それに気づく前は、それだけでも生きていけると思っていた。それが、復讐心と呼ばれるものだとも知らず、ただ、彼はそれに身を委ねていた。
 あの時、何の思い出もなくなった彼にとっては、妖魔に対しての憎しみだけが生きる糧だった。ある時から、彼は妖魔をどれだけ痛めつけても、心が痛まなくなっていた。だから、妖魔を執拗に追いつめて、それを一応は浄化しながら、彼自身その狩りを楽しんでいた。使命という言葉にかこつけて、自分の心の奥の復讐心を晴らすことで得た快感を持って、彼は彼なりに幸せだと思っていた。
 或いは、その時、ファルケンは、ほとんど狂気に陥りかけていたのかもしれない。師であるハラールが、彼に危機感を抱いている事も、さりげなく監視下にいれたことにも、彼は気づいてもいなかった。
 だが、そんなことで得た心の安寧は、些細なことでうち崩されてしまっていた。
 あの時、妖魔にとどめを刺した後、彼は出会ってしまったのだ、かつての自分とレックハルドに。

 
 妖魔を斬り捨てて、その残骸を踏みにじった後、暗い喜びに満たされていたファルケンは、茂みの向こうを歩いていく二人組を見て、凍り付いたように立ちすくんでいた。
「お前、馬鹿じゃねえのか? 全く、何度教えても、商売の仕方がわかってねえ」
「そうかなあ。オレはわかってるつもりだよ?」
「……そういっているのが、一番怪しい」
 のんきな会話を、ききながら、ファルケンは思わずもっていた剣を取り落とした。前を歩いていくのは、東方風の衣装に身を固めて陽気に歩いていく青年と、そして、まだあどけない表情を浮かべて歩いていく狼人。その一人がかつての自分であることが理解できると、ファルケンは、真っ青になった。
「あ、あ、ああ……」
 思わず、落ちている剣を忌まわしいもののように見た。今、自分は何をしていただろう。妖魔を切り捨てて、踏みにじって、それで笑っていたのは、間違いなく自分だ。
 声は遠くに遠ざかっていく。その声は、もう耳に入らない。ただ、今行ったばかりの酷い所業が、ファルケンは恐ろしいものに思えて、身震いした。
「ち、違う……」
 泣きそうになりながら、ファルケンはぽつりと呟いた。
「オ、オレは、オレじゃない……」
 首を振りながら、彼は青ざめた顔で、そうぶつぶつと呟いていた。
 ファルケンは、……きっと、あの時、司祭達に殺されたが、最後に幸せな気分で死んだ奴のことだ。あの時、ファルケンは幸せに死んだ。だから、復讐なんておぞましいことに手を染めようとはしないはずだ。こんな風に、酷いことをするようなものではなかった。
「……オレは……ファルケンじゃない……」
 彼には、それを否定することしかできなかった。認めてしまえば、過去の幸せだった思い出まで汚してしまうような気がした。一番幸せだった頃の自分を守るために、彼は自分に嘘をつかねばならなかった。
「オレは、ファルケンじゃない……」
 絶望的な思いで、彼は呟いた。森の向こうで、かつての彼だったファルケンと、まだ何も知らないレックハルドが冗談を言い合いながら歩いていった。それをただ呆然とみつめていた彼は、やがて一つのことに気づいた。だが、それは、気づいては行けないことだったのかもしれない。
(まだ、ここでは、みんな幸せなままだ……)
 それはそうだ。あの時、ファルケンさえ死ななければ、レックハルドは聖域などに向かうはずもなかった。
「ファルケンがもし、生きていれば? あの時、ファルケンが、もし、死ななかったら……」
 彼はぽつりと呟いて、その危険な意味に気づいた。それは、過去を変えるということで、時を司るシールコルスチェーンの中でも、一級の禁忌とされている。時間というのは、デリケートなものだ。定まった規則があるにもかかわらず、どう進むかを計算することはできない。
 つまり、ここでもし、下手をすれば、ファルケンの未来の姿である自分は、過去の改変によって消滅する可能性がある。もちろん、消滅しない可能性もある。しかし、きっと、一人だけ世界の狭間に取り残されて、永遠の孤独の苦しみを負うかもしれない。どちらにしろ、その行動をとった彼には、未来はない。消え去るか、地獄にたたき落とされるかのどちらか。
(でも、……もしかしたら)
 彼は微かな希望を抱いてしまった。目の前を歩いていったのは、一番彼が好きだった時間の自分だ。相棒がいて、そして、優しい人間に囲まれて、辺境の仲間達も徐々に彼を認めてくれてきていたあの頃の。
「戻れるかも」
 先程、妖魔をふみつぶしていた男の面影は消え果てている。祈るように呟いて、彼は夢見るような目をした。
「あの頃に、戻れるのかも」
 自分でなくてもいい。あの頃の自分が幸せに生きられるなら、きっとそれで自分も幸せになれるだろう。自分は、「ファルケン」の残骸で、きっと、もう違うものになりはててしまった。昔の自分は、少なくとも、敵を踏みつけて愉悦に浸るような冷酷な男じゃなかったはずだ。だったら、こんな自分を見て、レックハルドやマリスは、一体どう思うだろう。
 こんな弱い者を好んで踏みつけるような姿を見られたら、きっと、軽蔑するに決まっている。そんな目を向けられるのは嫌だった。
 正直、昔の自分がそれほどいい奴であったかどうか、自信はなかった。優柔不断で弱くて、結局、言いたいことも言えないようなそういう奴だった。でも、少なくとも、レックハルドは許してくれたし、彼のことを信頼してくれた。だが、彼にはもう自信がなかった。レックハルドが、どれほど優しい人間でも、今みたいになってしまった自分が、仲間だと言われてもきっと困るだろう。こんな復讐に目の色を変えた自分など、もうかつてのファルケンではないのだから。
 だから、せめて昔の自分を助けたかった。その後、どうなろうが、かつての自分が幸せなら、彼も救われるはずだから。かつての自分が生きていけるなら、自分はもう消えてしまっても良かった。
 ここにいる以上、もう、ファルケンの名前は使えない。だから、別の名前を名乗ったのだ。古の辺境大火災の時に、森を覆った火の飛沫、つまりイェーム。その名前こそ、きっと、森に火をつけて、全てを壊してしまった罪深い自分には相応しい名前だろう。そして、全てを元に戻せるなら、火が消えるように消えてしまえるように、その名前を名乗ることにした。きっと、もう、二度と、ファルケンを名乗ることもないのだろう。


 ――あの時、迷いはなかったはずだ。それが、最も正しいことだと、自分では信じていたから。



「ああ、旦那」
 夕暮れ前の街で、彼は見覚えのある男の顔を見たような気がして、そう呼び止めた。イリンドゥの近く、アネーシャの街。夕暮れの前だから、もう仕事も終わりである。彼を含めた行商人達は、そろそろ今日の宿を探し始めているときだった。
「え?」
 呼び止められて、背の高い男は振り向く。きょとんとした様子の男ののんきな表情には覚えはないが、顔の方は良く覚えていた。
「ほら、忘れましたか? 私ですよ、私」
 男は相変わらずの様子だったが、その表情に暗さはない。髪の毛を隠すのもあってか、スカーフを巻いていた。大きな目を何度か瞬かせて、ようやく思い出したらしく、狼人はにこりと微笑んだ。
「あー、思い出した! あの時、オレに布を売ってくれた人だな」
「はい、そうです」
 布売りがそういって微笑むと、彼は笑いかえしてきた。その様子に、少しだけ安堵しながら、布売りは言った。
「旦那、もしかして、何か様変わりしましたか?」
「そうかな? あ、でも、あの時はちょっと大変だったから」
 そういって苦笑して、ファルケンは感慨深げにいった。
「でも、こんな所まで行商に来ているんだなあ」
 シレッキからすると、ここはかなり東である。この辺りで会えると思っていなかったので、ファルケンの声には意外な響きがあった。
「お客様がいれば、地の果てまでもですよ……」
「そうか。そうだよな、そういえば」
 そういうと、ファルケンはにっこりと笑った。と、ふと彼の後ろからレックハルドの声がきこえた。
「なんだ、知り合いか?」
「え? ああ、前にモノを買ったことがあるんだ」
 ファルケンは、少々小声になってレックハルドに訊いた。
「布かってっていいか?」
「は?」
 いきなりそういわれ、レックハルドは同じく小声になり、ファルケンをつかんで、ひっぱった。
「おい、オレ達も主な商品が布だってこと忘れてるのか? ……同業者だぞ……」
 レックハルドは、あきれたような顔でいったが、ファルケンはにこりと微笑んでいった。
「でも、ここの布はオレ達の売ってるのと、結構違うんだよ。仕入れ先が、西の方だっていってたから」
「……そりゃそうだが。ああもういい、お前の金だ。好きにしやがれ!」
 気の短いレックハルドは、ファルケンに説明するのが面倒になって手を振った。
「気が短いなあ」
「お前のせいだろが!」
 ひくっと頬を引きつらせてそう言い放ち、レックハルドはそっぽを向いてしまった。ファルケンはそれに肩をすくめながら、布売りの方に向き直った。
「それじゃ、いくつか売って欲しいんだけど……」
「ああ、いいですよ。あの方は……?」
「ああ、仕事の相棒なんだ。ちょっと、すぐに機嫌悪くするけど……まあ、悪いヤツじゃないよ」
 そういいながら、ファルケンは苦笑する。
「それじゃあ、どれが良いのですか?」
「そうだなあ、じゃあ、綺麗な色なのがいいかなあ」
 ぼんやりとそんなことを言うファルケンに、彼はきょとんとした。
「おや、白いのはよろしいんですか?」
 あれほど、白がいいと、言っていたのに、今は白には見向きもしない。彼は不思議そうにファルケンを見上げた。ファルケンは、頷いてにっこりと笑う。
「うん、あれはもう要らなくなった。今欲しいのは、そっちの赤いのと青いのと……」
「そうですか。その方が旦那にはよくお似合いですよ」
「そうかなあ。ありがとう」
 ファルケンは上機嫌で、綺麗な色の布を買い付けると、軽く布売りに挨拶をして歩き始めた。その姿には、かつての悲壮感はない。やがて、相棒に追いついて、何やら軽口を交えた応酬が始まっているらしいのがわかった。
 布売りは、他人事ながら、なぜかその光景に安心し、今日の宿を探すことにした。


 レックハルドは、相変わらずの相棒の趣味に、顔を引きつらせていた。
「お前なあ、なんだ、そのクジャクの羽のような取り合わせは!」
「ええ? いい色だろ?」
 ファルケンは、不服そうに言った。
「オレはこういう色のが好きなんだ。これ縫い合わせてマントにしたら、かっこいいと思わないか?」
「なんでそんなに派手好きなんだ」
 どちらかというと、地味な服装の多いレックハルドは、ファルケンの趣味が理解できない。
「派手好きじゃないよ。オレは、鮮やかな色が好きなだけ」
 ファルケンは、ちょっとだけ手を広げて言った。
「ほら、辺境の森の中には、こういう鮮やかな色の花が多いじゃないか」
「アレは不気味だろ?」
 顔をしかめたレックハルドに、ファルケンは不満そうに言った。
「慣れると綺麗だよ。なんで、それが派手好きにつながるんだよ?」
「そういう色を身につけるってことが、結果的に派手好きになるんだ」
 ため息混じりに、目を細め、レックハルドは吐き捨てた。
「お前、そんな格好で歩いたら、オレは他人の振りするからな!」
「えっ、何で?」
「何でもだ! そんな目立つカッコすんな!」
「目立ってるつもりはないけどなあ……」
「……お前の感覚はやっぱりおかしい」
 レックハルドはあきれ果てた様子で呟いた。ファルケンの趣味にはついていけない。
(なんか、コイツ、オレと旅してからどんどん趣味が訳のわからない方向に行ってないか?)
 もしかしたら、以前はかつて仲間だった連中に、派手な色についてきつく言われたのかもしれない。あの頃のファルケンは、ひどく相手に嫌われるのを恐れていたので、そういわれれば言うとおりにしただろう。
 そのせいもあるのかもしれないな、と思いながら、レックハルドは、少しだけ複雑な気持ちになった
「……うーん、自信持たせるのも考えものだな?」
「え? 何か言ったか?」
「いや、こっちの話」
 そうかわしながら、レックハルドは、やたら嬉しそうなファルケンの様子に、やれやれともう一度ため息をついた。



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©akihiko wataragi